小説

『桃を買ったクレーマー』すかし・ぺー夫(『桃太郎』)

 かすかに震えている、上ずっている、だけど平静を装って低姿勢な電話口の声。「そちらで買った商品なんですけど…」と切り出した後の、緊張感を必死で隠そうとしている相手の声がたまらない。容赦はしない。わたしはあなたに裏切られた、あなたはわたしを裏切った。信用していたのにもう信用できない、だから何があっても許さない、と正面を切って言える喜び。誰しも、自分の負を完全に隠し通しては生きていけない。わたしは日々のわたしを脱ぎ捨てて、ただ許さない。

 桃太郎と名付けるのも癪であり、馬鹿げていると思い、太郎と名付けた。田舎の年老いた母は、突然未婚の母となった46歳の娘に、なにも聞かない。いやなにも聞けないのだ。30過ぎてからの娘の薄ら黒い変化に、母として敏感に気づきながらも腫れ物にさわるように、なにもできずに来た。そういう関係だった。わたしもまたなにも言わず、アマゾンで育児書を買いあさり、なぜだか完璧に母をこなした。太郎は、どんどん育った。

 保育所に入れて働いた。熱を出したといっては会社を早退し、発表会だといっては半休を取った。太郎は、どんどん育った。わたしはどんどん母になっていった。自分の持てる限りの愛情を注いだ。だけど誰のことも信用していない。もちろん可愛い太郎のこともだ。桃から生まれてきたような子どもだ。どれだけ愛情を降り注ごうが、いつの日か鬼退治などと称してわたしを置いていくのだろう。信じれば、また裏切られるだけだ。
 幼稚園の卒園式ではさすがに泣いた。子どもたちが幼い大きな声を張り上げ感謝を歌う声に、類に漏れずぐっときた。

 独り身の子育ては、わからないことばかりで壮絶に忙しく、クレーム電話をする時間もあまり持てなかった。おむつでひどくかぶれた、粉ミルクに乳児に有害な成分が入っている、ベビー用品にこのような部品があると誤飲するではないか。いくつでも「信じない」「許さない」を叩き付けるチャンスはあった。ただ時間がなかった。
 ふと考えることがある。あの時、太郎を返すことができた。なぜ返さなかったのか。なぜ。考えられない異物混入として大きな問題とし、返品できたはずである。だけどわたしは、唐突にやってきたこの命を返したくなかったのだ。
 むぎゅうと掴まれた親指の感覚が、まだ残っている。
 

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