小説

『桃を買ったクレーマー』すかし・ぺー夫(『桃太郎』)

 わたしがクレーマーになったのは忘れもしない40歳の誕生日。会社の帰りにデパ地下で買ったイチゴのショートケーキ一切れ。ささやかな自分への誕生日プレゼントだった。家でニコニコと皿の上に置くと、クリームの上にコバエが張り付いていた。そんなことぐらいでなにがどれだけ悲しかったのか、わたしは泣いた。声を出してわんわん泣いた。意地を張って必死で生きている自分が、とてつもなく可哀想な存在に思えてきて嗚咽しながら泣いた。
 泣きやむと、いままで感じたことのない種類の怒りがこみ上げてきた。なにがあっても許さない、もし人を殺めるとしたらこういう感情じゃないかというぐらいの怒り。わたしはケーキ売り場に電話をした。クレーマーの誕生日である。はじめから、わたしは冷静で上手なクレーマーだった。ケーキ売り場のアルバイトでは話にならず、食品フロアの主任、デパートの部長、そして最後はケーキ製造会社の本部長まで相手にした。つぎの日には背広の偉そうなおじさま方が雁首をそろえ菓子折り両手にやって来たが、わたしは家にも入れずもちろん菓子も受け取らず、玄関先で棒のように立ったまま、繰り返される詫びの
言葉をただただ聞いていた。ぜったいに許さない、という快感。

 そんなわたしが買ってきた桃に、赤ん坊が入っていたのだ。確かに見たことのない大きな桃ではあった。しかし色つやも弾力も申し分なく、岡山産特選大桃「桃太郎」というブランドであり、なによりも果物屋の主人がこの桃を食べずに桃好きとは言えない、と言うので買ったのだ。いちばん好きなフルーツは桃、二番目がイチゴ、三番目は梨。
 思い切ってまっぷたつに切らなくてよかった、という思いと、切ってしまっていたらどうなってたんだろうという思い。目の前で、元気な男の赤ん坊が手足をバタバタさせて泣いている。無理だ。なにをどうしたらよいのか分からない。「桃太郎」から、桃太郎。ちっとも面白くない。恐る恐る抱き上げると、赤ん坊はその小さな手でわたしの親指をむぎゅうと掴んだ。この世で信じるものはこの親指しかないというくらいの力で、ぜったにに放すものかと掴んでいる。
 

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