私がそのバラの品種がオールドローズだと知ったのは大人になってからだった。
父は銀座に行く度、母が好きなバラを持って行った。そのバラは秘書の田村が用意していたので、彼は母が好きなバラの品種を覚えていたのだった。
バラの優雅な香りと病院の消毒のにおい、窓から午後の陽光が差し込んで、危なっかしい手つきでリンゴの皮を剥く田村を母が微笑みながら見つめていた。子どもの私から見ても田村が母を好きなのがわかった。母が田村と再婚したのは自然の流れだったと思う。でも再婚の一番の理由は自分と同じように、父親のいない寂しさを私に経験させたくなかったからだ。
しかし、母と田村の再婚は不幸の始まりだった。
物心ついた時から父の秘書だった田村を兄の様に慕っていたので、彼は父というよりお兄ちゃんだった。母が田村と再婚しても、私は彼を今まで通り「お兄ちゃん」と呼んだ。
母は「お父さんって呼びなさい」と私を叱ったが、
田村は「お兄ちゃんでいいよ」と笑った。
「いつか、お父さんって呼んでもらえるように頑張る」と田村は言ったが、
私は田村を「お父さん」と呼ぶことはなかった。
初潮を向かえた十二歳の時、初めて本気で人を好きになった。
奥二重の中の優しい瞳、男のくせに細くて長い指、風に靡く栗色の髪を見ると心臓をギュッとつかまれたみたいになった。今まで感じたことがない気持ち。田村がお兄ちゃんから愛する人に変わった。
「これからは自分の部屋で寝なさい」母が言った。
私は生理になって大人の仲間入りをしたので、夫婦の寝室から子ども部屋に追いやられたのだ。シルクのパジャマを着た母が夫婦の寝室に消えて行く姿を見た時、耳が火で炙られたようにカッと熱くなった。ベッドに入っても心臓の鼓動は、おさまるどころか激しくなるばかりだった。
男と女が同じベッドに入って何をするのかは知っていた。
それを知ったのは小学校五年生の時だった。
女子だけが暗幕が張られた教室に集められ、スライドを見させられ性教育を受けたからだった。さすがに小学生の私でもコウノトリが、赤ちゃんを運んで来るとは思っていなかったが、卵子と精子が受精して、それが人間になるとは目玉がひっくり返るほど驚いた。