次の朝、男の人は紙と、文字を書くためのペンを持って来てくれた。これなら喋れなくても意思疎通ができると思ったのかもしれない。彼は、ペンの握り方も使い方も判らない私に親切に教えてくれた。初めて触る乾いた紙。嗅いだことのない心地いい匂いがした。初めて使うペン。自分の手から文字が生まれるのがこんなにも嬉しいなんて。
彼は日が暮れるまでずっと一緒に文字を書いてくれた。色んな言葉も教えてくれて、私は何だか申し訳なくなった。姉さんから受け取ったナイフは服に忍ばせたままで、この人を刺そうとは思わなかった。だって、私はこの人に恋なんてしていないから――。
彼が帰った後も、私は彼が置いて行った紙とペンで書き続けた。手が疲れたら口笛を吹いて、また書き出して、また吹いて。月が夜空の一番高いところに昇る頃、私は不意にまた泣き出してしまった。身勝手なことをした自分と、そんな私のために大事な髪を切ってまで助けようとしてくれた姉さん達。でも、海に帰る気にはならなかった。
ごめんなさい。こんな自分勝手な妹で。
ごめんなさい。不出来な娘で。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
これが最後のわがままです。ごめんなさい。」
そこまで書き上げて、彼女は紙とペンを脇に挟んで歩きだした。不格好に、みっともなく、拙い足取りで、もう長いこと望んでいたあの場所に向かって。
人魚でいるのが嫌になったわけではなかった。人間の男の人に恋をしたわけではなかった。海の上での暮らしを夢見たわけでもなかった。
姉や父、母に胸中懺悔しながら、しかしこれから自身がすることを考えると抑えようがない程に心臓が、胸が、高鳴なり、やっと手に入れた両脚も、歩く度に襲ってきた激痛も何もかもが愛しくなって――。
声にならない声で歌いながら彼女はやっと辿り着いた。どうしても自分で、自分の脚で来たかった場所。悲恋が終わる場所。波が海の怒りを表す程に強く打ちつけるこの崖の上に。
持って来た自分の物語を足元に置き、風に飛ばされないように石を上に乗せた。呼吸が浅くなり息苦しささえ感じているはずなのに、それすら気が付かない程、興奮しているのだろう。切り立った先端に立って、彼女は自分より先に杖を投げ込んだ。回転しながら弧を描いて、海に落ちて、そして、見えなくなった。乱暴に白泡を立てる波に揉まれて、もうばらばらになったかもしれない。
さようなら。さようなら。
彼女は跳んだ。うんと昔に憧れた物語のヒロインがするみたいに。人魚の彼女が暮らしていた海へ、人間の彼女を呑み込む海へ。
落ちながら、その双眸は崩れていく自身の体を見つめた。きっとこれが、魔女に貰った小瓶の呪い。恋した相手を殺さないと、自分が死んでしまう呪い。こんなにも優しい呪い。
先の丸まった髪が崩れ、姉を抱き締めた腕が千切れ、やっと歩けるようになった脚が燃えて、狂おしい程会いたかった死が彼女を迎えに来る。
ありがとう、私、今、とっても幸せだよ――。