小説

『死にたがりの人魚姫』東村佳人(『人魚姫』)

 私は悲恋の物語が好きだった。胸の奥がちりちりとむず痒くなるのが恋。腕を失くしてしまったような怖さと痛みが失恋。それくらいは私にも判る。そして、最後に結ばれない二人が最後に崖の上から海へ飛び込む。待ちうける死という怪物。初めて目にした時に私はどれ程驚いただろう。悲恋なんて言うけれど、絶対に嘘だ。だって、私にはこんなに美しく見えるのに!
 死を、私は知らない。誰かが死ぬなんて経験したこともないし、オーリ姉さんに訊いても、あんまり詳しいことは知らなかった。
 死は完全な未知だった。どこにあるわけでもない、でも、どこにでもあるような――。人間の本を読んでも、余計判らなくなるだけだった。でも、そのうちに一つだけ判ったことがある。人間は死が好きってこと。結末は二人で死ぬか、一人が死んでもう一人が泣く。それがお決まり。つまりお決まりに使われる程、人間達は死が好きなんだ、愛してるんだ。

 ある日――とても海が荒れた日――私は波とは違う音を聞いた。気になってその方向に泳いで行くと、一人の人間が海の中にいた。人間は海に滅多に入ってこない。いつも海岸の浅いところで遊んでいるだけ。でもこの人間は違った。私達が住む様な深い深い海に入って来た。
 その人間は短い髪で、お父さんみたいに険しい顔をしていた。顔は私よりずっと熱くて、でも私よりずっと青白かった。不意に思い出した、いつか本で読んだことを。人間は海に入って、顔が青くなったらもうすぐ死ぬってことを。私は急いだ。急いで男の体を引っ張って海面に出した。
 海から上がることは、人魚にはできない。体が海の中より極端に弱くなるし、息も苦しくなる。でも必死に、背中に人間を乗せて、彼の顔が水面からでるようにした。急いだ、急いだ、急いだ――。今まで泳いだことのない距離を、今まで経験したことのない速さで泳いで、岸まで急いだ。この人を岸まで連れて行かないといけない気がしたから。私達人魚と違う、彼の身に着けているもの――つまり服――はずっしりと重くて、途中何度も私の腕と背から滑り落ちた。その度にまた彼の体を掴んで泳いだ。
 いつしか波も穏やかに、太陽の光が私達を照らしていた。灰色の汚い雲の隙間から顔を覗かせて、じっとこっちを見ている。
 

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