小説

『死にたがりの人魚姫』東村佳人(『人魚姫』)

 岸のぎりぎりまで近付いて、私は彼の体を離した。浜辺へゆっくりと崩れる波が彼を運んで、流れるような優しさで陸に揚げてくれた。水平線の向こうへ、大きな太陽が沈んでいく。水面から少しだけ頭を出して彼を見た。
 まるで本の物語だ。そう思った。悲恋のお話なら私が彼に恋をして、でも彼は別の人と結ばれて、私は崖から海へ飛び込む。いや、もしかしたら彼がとても重い病気で私と結婚できても死んでしまう、そんな本も読んだことがある。
 その時私は初めて見た。人間の住む場所は荘厳だった。人魚の城も立派だけど、人間のは、それよりももっと大きい。黒くて、柱の上には火が灯っている。火を見るのは初めてだ。海の中じゃ火は使えない、もっともそれで誰一人困ったことはないけれど。
 綺麗――そう思った。

 それから私は姉さん達の目を盗んで何度も海岸へ泳いだ。特にオーリ姉さんに見付かったら何を言われるか。人魚は人間に会ってはいけない。何年も何年も、きっと生まれた時からそう言われていた。
 でも私はその言いつけを破った。海岸の岩場に手を突いて、水面から少しだけ顔を出す。その時は普段よりも人間の数が多かった。みんな黒い服を着て、たまに涙を拭いている人もいる。その中に彼を見付けた。私が見付けた彼。動きにくそうな、黒い大きな服を着て、横に長い、木の箱の傍に立っている。大勢で木箱を岸から海に押し出した。
 その木箱は流れに乗って沖に出た。多分人間は船に乗らないと来ないような、岸からうんと離れたところまで。私は思い切ってその箱を開けてみた。中に入っていたのは綺麗な顔をした女の人。両手を組んで、その上に花束が置かれてる。ひっくり返って女の人が海に落ちないように気を付けて、私は彼女の頬に触った。
 冷たい。
 前にあの男の人を助けた時よりも冷たかった、そして硬かった。人の体じゃないみたい。
 私が声をかけても、頬を叩いたりつねったりしても、女の人は何も言わない。ずっと目を閉じて、少し口を開けて、でも何も言わない。
 その時唐突に判った。この人は死んでいるんだ。人間は、死んだ人をこうやって海に流すんだ。どうしてかは判らない。人間は――少なくとも本の中の人間は、死を嫌っていた。だから多分、死んでしまった人を、自分達から遠ざけるために海に流すんだ。
 私の胸は、今まで感じたことがないくらい、どくどくと大きく脈打った。死んだ人が目の前にいる、それが堪らなく嬉しかった。本の中では知っている。それでも実際に死を見るのは初めてだ。硬く冷たい死んだ人間――死体。なんて綺麗で、なんて柔らかな響き。
 踊った。私は踊った。拙いステップで、不格好にヒレを振って。木箱から彼女を出してあげて、月が海面を照らすまで二人で泳いだ。
 

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