「下の書斎をお使いになったら?ここは狭いでしょう」
「いや、ここが落ち着くんだ。下は子供たちが煩くていかん」
「晩だけでも自分の部屋でお休みになったら?」
「遅くまで書くんだからここでそのまま寝たほうが楽だ」
そんなやり取りを幾度も繰り返していたある日、
「たまには掃除させてください」
と、部屋に入ってきた細君は窓を開け放つと、あろうことか芳子の蒲団を干して、バンバンと叩き始めたのだ。
「やめろーっ」
私は大声で怒鳴りながら細君を突き飛ばし、蒲団を両手でかかえこんだ。何ということをするのだ。芳子の残り香が消えてしまったらどうする。私は怒りに震えながら細君を睨みつけていた。
私を見上げる細君の目は、驚きというよりも「ああ、やっぱり」という軽蔑の目だった。
以来、二階には誰も上がってこない。子供たちも言い含められたのか、気味の悪いものを見るような目で私を見て、近寄らなくなっていた。食事や用足しに私が下へ降りると、皆一斉に用事を思い出したかのようにいなくなり、ちゃぶ台に冷えた食事が並んでいるのだった。
出版社に原稿を届けた後、私は上野公園を回って帰ることにした。そろそろ桜が咲き始めていると耳にして、たまには少し歩くか、と足を伸ばしてみたのだ。
桜はまだ三分咲きといったところだったが、もう花見客で溢れていた。私は人ごみが苦手だ。来るんじゃなかったと呟きながら上野図書館の前を通りかかった時、私はあっと声をあげて立ち止まった。
芳子が出てきたのだ。まぎれもなく芳子だ。初めて見る洋装で、白いブラウスに蓬色の上着、同じ色のズボンをはいていた。同じくらいの年の女と二人で、楽しそうに話しながら図書館の門から出てきたのだ。私は思わず桜の木の後ろに隠れた。芳子だけが自転車を押している。私は人ごみに紛れて後をつけた。懐かしい芳子の声が聞こえてくる。
「お給金が出たから、今日は奮発してお肉を買おうかしら」
「いいわね。ご主人も喜ぶわよ」
主人だって?田中と一緒に暮らしているのか。東京に出てきていながら私には何の知らせも寄こさず、あの男と一緒になったのか。
私の激しい嫉妬の眼差しにも気付かず、芳子は自転車にまたがり、連れの女に手を振ると、颯爽と坂道を下りていった。
そういえば昔、上野図書館の見習いに応募して働きたいと言っていた。私は呆然と自転車の後姿を見送りながら、そんなことを思い出していた。