小説

『幻肢譚』生沼資康(『雨月物語 – 夢応の鯉魚』)

 待合室に入るとなんだか中年なのに完全に禿げた親爺が診察室に続く小窓から身を乗り出して私を見ていた。白衣を着ているのでおそらくはこの親爺が医者なのだろう。看護婦も不在で窓口の小窓から覗いているのが頬杖をついてこちらを見ている医者が一人しかこの空間には居ない。いや私が入ってきたから、このがらんどうの空間は二人の男で埋めつくされたというべきだろう。それは空間にとっては吉か。私個人にとっては言うまでもなく全く凶である。

「患者さん?」

 その医者が発声した。その親爺は勿論私を見ていた。見渡してみると他に待っている客もいないから、私に声をかけたのだろう。日曜の昼間なのにあまりに閑散とした整骨院だ。日曜の昼間はもっとこう、中学生とか高校生とか、エネルギーが有り余り力の加減がわかっていない年齢の野郎どもが限界も知らず体を酷使してはこぞって集まる場所だとばかり思っていたので、この空き様が意外だった。いきなりの声掛けに面食らっていた私に医者のような親爺は続ける。

「今日ね、看護婦いないの。ごめんね。おっさんしかいないのはむさ苦しいよね。でも大概の整骨院はそんなところだから気にしないでね。じゃあ、こっちへどうぞ。」

 そう言った親爺は窓口で頬杖をついたままじっとこちらを見て動かない。視線を私からずらさない。普通どうぞと言ったらドアを開けたりするものじゃないのか。気持ち悪いなと思い、彼の視線を感じながらも靴を脱ぎ、スリッパを履き、待合室を抜けて診療室のドアを開ける。その間、彼の視線は動く私からまったく動かない。その視線はじっと離れない割には感情の感じられない視線であった。なんと形容すればよいのだろうか。幼い時分、蟻の行列を鼻を垂らして眺めていたときはあのような視線だったのかもしれないと懐かしい気持ちに陥った。ただ、その視線がねちっこい種類のものではなかったからといってそれが生理的に気にならないかと言ったらそうでもない。やはり気持ち悪いことには気持ち悪かった。

 ドアを開けてくぐったとき、そういえば診察券も保険証も渡してないけどいいのかなと思いそのことを親爺に尋ねようと横を向いたが、いつのまにやら親爺は奥にある診療台の椅子のところに座っていた。呆気にとられてあれこれ考えていたことも忘れてそのまま診療台の前の椅子に腰をかけた。

「診療室はちょっと暗くてごめんなさいね。太陽の光に弱い薬とか置いてあるから。」とかなんとか聞いてもいないのに言い訳を始めた。

「で、どうしたの?」

 私は語った。もちろん理路整然とではなく、どちらかといえば支離滅裂寄りに語った。どうにも語りようがないのだから仕方がない。夢を見ること、夢で魚を取ろうとし目が眩み尻が痛み出すこと、次に首から上が痛み出すこと。そして、数刻後には痛みが引いて跡形も無いこと。

「なるほどねえ。」

「話した内容、わかりました?」

「もちろん。こういうことはよくあるよ。」

「よくある?」

「君ぐらいの歳ならよくあるね。」

この親爺が適当なことを言っているのかどうかはわからないが、あまりに平然と受け止められてしまったので意外な反応に反射できず、私は「へえ」と「はあ」の中間ぐらいのよくわからない声を用いて相槌を打っていた。

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