小説

『幻肢譚』生沼資康(『雨月物語 – 夢応の鯉魚』)

「まあ、これは幻肢痛の一種だろうね。知ってる?幻肢痛。」

「いえ。」

「あのね、戦争とかに行って腕を無くしちゃった兵士がいるとするでしょう。昨日まで存在していた腕がいきなりなくなってしまうと脳は対応できないの。それで、手があった頃のように神経が動いてしまって痛みをもたらす。それを幻肢痛というのだ。」

 のだ。いや、それはどうでもいい。そういえば幻肢痛というものは聞いたことがある。脳が正しく認識させるため、鏡などを用いて腕が存在していないことを段階的に脳にインプットしていくことで痛みを和らげさせるリハビリテーションの様子を見たことがあった。

「君が感じているのは、尻尾の幻肢痛だ。」

「尻尾?」

「人間は類人猿から進化してきたでしょう。その進化のどこかで尻尾が無くなっていったとき、人が尻尾の幻肢痛を感じていたとしたら。そのときの先祖の記憶を君の脳のどこかが持っていたと考えてはどうかな。」

 ここは整骨院だったと思っていたのだが、何かしら怪しい宗教施設もしくは自己啓発セミナーに間違えて入ってしまったのかもしれないと先ほどの入り口の看板を思い出そうとしたけれど、庭を想像すると二匹のゴールデンレトリバーの屈託のない笑顔しか思い出せない。犬のくせに随分といんちき臭い笑顔をするものだ。やはりブルジョア世界においては犬でさえも人工物となりさがるのか。いやそんなことはどうでもよいのだ、犬の上にあった看板に意識を動かさなければ。

悶々としているうちに、こちらの反応を待ちきれなかったのか親爺は続けた。

「そもそも尾骶骨は尻尾の生えていたころの名残のある造りをしているんだね。現在でも遺伝子のイタズラでほんのささやかな尻尾、実に情けないレベルのシロモノですが突然変異で尻尾が生えてきてしまったという事例は世界中にあるのだ。」

「ちょっと待ってください。何を言ってるのかわからないのですが、つまり、尻尾の無くなっていった頃の記憶を持つ遺伝子が暴走している、ということですか?」

「そうです。尻尾を無くしていった頃のぼくらの先祖はみんな、君と同じような痛みを抱えていたのかもしれないねえ。幻肢痛なんてものは、幻です。実在しない幽霊のようなものです。ありもしない幽霊に怯えているようなものと考えれば、この場合は尻尾の幽霊ということになるのかな。」

「でも、なんでいきなり始まったのでしょうか?」

「さあねえ。ただ、君の夢にヒントがある。洞窟から森へ行く夢、これは君が原始人だった頃の記憶じゃないのかなと推測できるね。洞窟をねぐらとしていて、川で餌をとり生活していた頃の記憶でしょう。その頃の君が尻尾の幻肢痛に悩まされていたとしよう。そうすると、夢が引き金となって現実世界での痛みを誘発しているというのはいかがかな。」

「だから痕も残ってないと?」

「そのとおり。これは精神的なものなので、ゆっくり脳に認識させていこうかね。」

「でも、驚きましたね。こんなオカルトっぽい話、整骨院の守備範囲なんですか?さすがに違いますよね。」

「まあ、これは霊感みたいなものよ。あんまり整骨院とは関係ないのよ。生まれつきなんで仕方なくやってきたようなところがありますね。ほら、煎餅屋に生まれたら煎餅屋を継ぐのが宿命、みたいなもんかな。」

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