小説

『幻肢譚』生沼資康(『雨月物語 – 夢応の鯉魚』)

 先ほど言ったように、この痛みは夢と共に生じる。もしかしたら、あの洞窟で目覚めて森に向かう夢が骨への痛みを引き起こすのかもしれないし、あるいはその逆かもしれない。もしくは、まったくの偶然で何の関係もないのかもしれない。そこらへんはわからないが、この夢を見るのは一週間に一回程度。節操が無いほど頻繁ではない。かと言って謙虚さを持ち合わせてくれているほどでもない絶妙な回数、それが一週間に一回という頻度だ。

 週一でも地獄の痛みが生じるというのでは迂闊に眠ることが恐ろしくなりだんだん不眠症になりそうなものである。しかしその点私は図太いので明日のことは明日考えるようにし何の対策もせず寝る。一週間に一回程度ならば、悩むことはない。原因も不明だし、ただの夢の副作用か幻覚だろう。そして夢のたびに後悔しあれこれ対策を考える。しかしだんだん面倒くさくなって考えるのを辞め、また寝る。その繰り返し。

 しかし、さすがの私も三ヶ月目で音を上げざるを得なかった。いくら精神が図太かろうが、体が反射的に身構え始めてしまっては、おちおち安寧に寝れなくなってくる。ことここに至ってはもうしょうがない、医者に行くしか道は無いかと腹を括って決心もするが、待てよ、はたしてどの科にかかればよいのか皆目検討がつかない。精神科か、神経科か、内科か、外科か、はたまた泌尿器科か。私はもともと滅法病院嫌いであって、行きつけの相談できる医者がいないのは勿論、何科が何を見てくれるのさえ、はなから知らない。今までの半生を振り返れば大体の痛みは慣れることでどうにかなってきた。長年続く慢性的な腰痛のことをヘルニアかもしれないと友人に指摘されたことがあるが、座り方や座る時間を調整することで誤魔化してきたおかげで、整骨院にすら通わずに痛みと共生するやり方で活路を見出してきた。それは逃げだと幾人に言われようが、金がないのだからこれが私にとっては一番良い方法である。あまり人にとやかく言われる筋合いはない。しかし、今回みたいなときには心底困ってしまう。友人に相談するにもあまりにとりとめのない話なので説明するのも面倒だ。

 ええいどうにでもなれ、と腹を括って取り敢えず近場の整骨院に行くことにした。なぜならば、私の想像する整骨院というものは薬を出さない。それゆえに費用が抑えられそうだし、普通の病院よりも診察料が安そうだったからである。これらはあくまで個人的な偏見である。

 次の日私が訪れた整骨院は、白っぽく塗り込められた木材でできていて、ここ10年も経ていないような新築2階建て。庭は広く芝生があってゴールデンレトリバーが二匹常駐して患者を笑顔で迎えることを生業としていた。絵に描いたようなブルジョアを目指している種類のブルジョア医者なのだろうという非難めいた考えが癖で働いてしまうけれど、これから診察してもらうのだからと謙虚な気持ちで待合室へ進む。

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