子供の頃、母とこの道をよく歩いた。
運動会の後、手をつなぎながら。ガキ大将にいじめられた僕を見て相手の家に押し入った後、妙に恥ずかしくて照れ笑いしながら。自転車の練習で傷だらけになった僕の頭をくしゃくしゃにしながら「痛いの、痛いの、飛んで行け!」とおまじないをかけながら。
この道は、帰り道だった。暖かく愛情の詰まった、家へ向かう幸せの道だったのだ。
何かを感じたのか、母が一瞬僕の方を見た。前よりも大分小さくなってしまった背中。
いつも僕の手を引っ張ってくれていた母に変わり、今は僕が車椅子を押している。
幸せが詰まった帰り道は、別れへと進む道へと様を変えてしまった。
そう、僕はもうすぐ最愛の母を捨てるのだ。
「ねぇ、御母さんの件だけど。考えてくれた?」
仕事から帰宅後、洗い物をしながら妻である理沙が淡々と問いかけてきた。
「……」
僕は何も答えず、ネクタイを緩めソファーに腰を下ろした。ドスと重たい音がリビングに響く。
「水もらっていい?」
洗い物をやめ、理沙が僕の前にコップ置き、隣に腰を下ろす。理沙の無言のプレッシャーに、僕は勢い良く水を飲み干した。理沙は僕の様子をじっと見つめている。
「……その事なんだけど、やっぱり施設に預けなくてもいいんじゃないか?」
僕が言う事を予想していたのだろう。理沙はあきれたと言った感じで、ややわざとらしいため息をついた。
「今までだって、母さんが居たおかげで助かった事、多いだろ?雄星だって『おばあちゃん居て嬉しい』ってよく言ってるじゃないか」
「今と昔は違うでしょ?」
静観していた理沙が、やや感情的になり僕の声を遮った。
「雄星も大きくなって手もかかる様になってきた。毎日、毎日、大変なの。それに加えて、御母さんまで……」
「……それとこれとは」
「毎日世話をするのは私なの!あなたは御母さんの足が悪くなった事から、逃げてるだけじゃない!」
リビングに理沙の声が響き渡った。
事実だった。今まで何度も理沙から相談され、その度適当な理由を付けては見て見ぬフリをしていた。理沙の方が、僕の何倍も母と向き合っていたのだ。
「足だけじゃない。御母さん、最近物忘れが酷くなってる。どういう意味か分かるでしょ?」
重苦しい空気が、リビングを覆った。時計の秒針の音と理沙の声にならない鳴き声が静寂を際立たせる。
秒針の1秒先の音が聞こえるまで、凄く間がある様に感じる。1秒がこんなに長く感じたのは初めてだった。
「……ごめんなさい。御母さんにはすごく感謝してるし、心から尊敬してる。だからこそ辛いの。きっと、私そのうち御母さんの事を邪魔者あつかいしてしまう」
あの日、母の事を純粋に思って流した理沙の涙。それが僕の煮え切らない心を決心させた。
「浩司」
「どうしたの母さん?」
「色々、迷惑かけてごめんね」
「なに馬鹿な事、言ってんだよ」
それ以外の言葉が出てこなかった。迷惑をかけたのは僕の方だ。今までずっと……。