いつの間にか風が強くなっていた。監督だというおばさんは、野球帽が飛ばないように、片手で押さえながら、ワカバに手招きをした。
ワカバが近づいて「よろしくお願いします」と頭を下げると、監督さんは「変わった子ね、監督になりたいなんて」と笑ってから「いろんな人が監督になるのよ。映像の専門学校を出た人、俳優だった人、映画会社に就職して助監督になってから監督になった人、本当にいろいろ。芸人さんが監督をすることもあるしね。映画やドラマを作るのが好きで、なりたいという強い気持ちがあって、スタッフさんたちに気を配れる人なら、どんなルートからでも、なれるわよ。あきらめなければね」
「監督の仕事は楽しいですか?」
「どうかなあ……単純に、楽しいとか、楽しくないとか、言うのは難しいわね」
「でも監督さんは、一番偉いんですよね」
「偉いといえば偉いけれど、だからといって威張ってたら、みんなついてきてくれないからねー。まあ確かに、撮影現場のリーダーであることは確かだけど。でもね」監督さんはそう言ってから、商工会館ビルがある方にあごをしゃくった。「あのビルの右側、レンガふうのタイルの前に立ってる女の人がいるでしょ」
見ると、確かに小柄な女の人がいた。黒っぽいセーターにベージュのチノパンという、ちょっと若っぽい格好だけれど、白髪頭を後ろにまとめていて、監督さんよりもさらに年上の人みたいだった。
「あの人、今撮ってるドラマの原作を書いた小説家の先生なのよ。今日みたいに撮影現場を見学に来ることがあるんだけど、先生こっちへどうぞって声をかけても、撮影の邪魔をするつもりはないからって、いつもちょっと離れたところから見てね、で、いつもお世話になってますって、あいさつだけして、すぐに帰っちゃう。打ち上げとかに誘っても来ない人。まあ、来てもらっても、お互いに気を遣っちゃって疲れるから、正直それでありがたいんだけどね」監督さんはそう言って笑った。「でもね、あの先生が出来上がったドラマを見て、気に入らないって言ったら、私はすぐにこれ」
監督さんは、手刀で自分の首を切る仕草をした。
「小説家って、そんなに偉いんですか」
「偉い、というのとはちょっと違うのよね。ただ、小説家の先生がお話を書いてくれるから、ドラマや映画を撮れるわけ。あの先生は割と優しい人だけど、売れてる小説家さんの中には、監督はこの人にしろ、主演の女優はこの人にしろって、いろいろ口出しする人もいるし、それが通っちゃうからねー。だから、小説家の先生は、私たちにとっては頭が上がらない存在」
「ありがとうございました」
ワカバはそう言って頭を下げるなり、小説家さんが立っているところに向かった。
ビルの外壁の前に立っている小説家さんは、ワカバのおばあちゃんぐらいの年みたいだった。でも、おばあちゃんよりも姿勢がいい。
さっきから強い風が吹いていたけれど、ビルの前はその風がほとんど感じられないぐらいだった。ビルの大きな壁が、風を跳ね返してるのだろうか。
「すみません、小説家の先生、質問させてください」
すると小説家さんは、あらあら、面白いお嬢さんね。どういう質問かしら」と応じた。
「小説家の仕事は楽しいですか」
「まあ、楽しいことは楽しいわよ。いい話を考えつくことができなくて、いらいらすることもあるけどね」