祖父はぐるりと彼女の周りをゆっくりまわった。それは毎年決まった仕草だったが、彼女の真正面で立ち止まると、唐突に口を開いた。
「おまえの歳の頃にな、吹雪の晩、血迷うて雪山にはいったことがあったんよ」
祖父は振り返りもせず彫刻と向き合ったまま、訥々と続けた。
「そんでな、雪女に会うたんじゃ」
僕は突然の話に、すぐにはその言葉を理解できなかった。
「雪女はな、若いわしを見逃してくれた。その代わり、必ず雪の季節には思い出すようにと言うた。それが条件じゃった」
僕は順番に祖父の言葉を追って、最後まで意味を呑み込むのには時間を要した。
祖父は冗談を言わない。ましてや嘘も言わない素朴な人だった。
作業用の椅子に座り、ゆっくりと氷の彫像を見上げている。その姿は、マリア像を仰ぐ敬虔なクリスチャンを連想させた。
「昔話に出てくる、あの雪女？」
僕は近づいて、氷の彼女の横顔を見つめた。少し俯くその表情には意思のある凛としたものが感じられたが、頬にはあどけなさが残っている。
「吹雪の晩に会うた雪女じゃ」
それから祖父も僕も凍りついたように、しばらく、ただただその雪女の彫刻を見つめた。
納屋は静まり返り、外で降る雪の微かな音までが響くようだった。
不意に、納屋の扉がドンドンドンッと音を立てた。僕は扉を振り向き、風だろうと思い、確認のつもりで扉へ歩こうとした。
すると、祖父が思いがけない強さで制止した。
「行くなっ」
荒げてはいないが、するどく厳しい声だった。僕は驚き、祖父を振り返った。
祖父の顔からは、さっきまでの穏やかな表情は消えていた。きつく雪女の彫刻を見つめながらゆっくり立ち上がると、「わしじゃ」と言った。
また扉がガタンと一度鳴った。祖父は振り向き、僕を通り越すと真っすぐに扉へ向かった。
おじいは何を言っているのだろう。そしてどこに向かっているのだろう。
僕は、祖父の静かな背中に、狂気が浮かんで見えた。理由は分からなかったが、あの扉を開ければ、この静かな冷たい世界が一変してしまうのだと思った。
「おじい、開けるな」
ほとんど無意識にもうそれを言っていた。
おじいは背を向けたまま、「わしを呼んでいるんじゃ」と言った。
今度こそ僕は背筋を凍らせた。そしてその背中にツッと彼女の視線を感じ、もう「待って」の声も掛けられないほどすくみあがっていた。