小説

『サルの夢』山本康仁(『猿蟹合戦』)

 あの日、放課後になっても女子はみんな教室に残っていた。ナナっぺとりくちゃんが日中、みんなに残るように伝言していたからだ。四時になって、もう薄暗くなった教室で、後ろの黒板の前に立っていたのはすーちゃんだった。すーちゃんを挟むように、ナナっぺとりくちゃんがいる。三人を守るように、私たち残りの女子が半円を作った。
 みんなが揃ったのを確認すると、ナナっぺとりくちゃんが、促すようにすーちゃんを見つめる。すーちゃんは深呼吸してから、「お母さんたちが話してるのが聞こえてきたんだけど」と話し始めた。
 サルの家族がどうしてここに引っ越してきたかだった。家族といっても、サルは父親とふたりで暮らしているのだという。それだけで私たちはざわざわした。どこにもそんな家族はいなかった。私たちにはみんなお父さんとお母さんがいた。誰の家にもそれぞれいた。父親しかいないのは、ふたつあるのが当然な目や耳や、ふたつ揃っているのが当たり前な腕や足が、片方ないのと同じような感じがした。気持ち悪かった。
「どうしてお父さんしかいないの?」
 誰かがみんなを代表してすーちゃんに聞く。すーちゃんは下を見つめて黙っている。
「離婚したんだって」
 ナナっぺがすーちゃんの代わりに答えた。
「離婚して、実家に戻ってきたんだって。会社で問題起こして首になったらしいよ」
 みんな何も言わなかった。しーんとして、「ね?」とすーちゃんに確認するナナっぺの声が、やたら大きく教室に響いた。あのときの私はきっと、「離婚」や「会社で問題」、「首になる」ということが、実際どういうことなのかあまりはっきりとは分かっていなかっただろう。でも、「普通じゃない」感じだけははっきり伝わって、ホラー映画でも観たときのように心臓がやたらどくどくした。
「言っちゃダメだからね、誰にも」
 ナナっぺが最後に小さな、でも強い口調で言った。みんな黙って頷いた。
 もちろん私は誰にも言わなかった。その日の帰り道にも、ユカちゃんとは別の話をした。家に帰っても、お母さんには何も聞かなかった。次の日の学校で、「昨日の放課後、女子だけで集まって何話してたんだよ」と男子がみんなに聞き回ったけど、私のところには来なかった。私は誰にも言わなかった。ずっと。もちろん、小島先生にも言わなかった。

 三学期になって班替えがあって、サルは松葉さんと、他に男子がふたりいる班と一緒になった。席も移動して、もう私の後ろじゃなくなった。だから、その後あったことは私には関係ない。小島先生は「同じ班や周りの席の人なら、誰がしたのか分かるでしょう」と言っていたけど、だからそれは私には当てはまらない。
 サルの椅子の上に画びょうが落ちていたというのも、サルの引き出しの中でカエルが干からびていたというのも、それにそれは何人かの男子が言うように、たまたまかもしれなかった。体操服が濡れていたのも、何かの拍子に、例えば花係りが水を替えているときに、思わずこぼれたのがかかっただけかもしれなかった。
 それに全てはサルが悪いのだ。松葉さんの絵の具を盗って、校則違反をした。カナエちゃんの体育館シューズを汚した。お父さんとふたりで暮らしていた。変だった。普通じゃなかった。
 小島先生はサルに、「言いたいことがあるならはっきり言わないとだめよ」と言ったけど、結局サルは何も言わなかった。いつまでも何も言わなかった。いつまでもただ先生のほうに顔を向けて、そのままチャイムが鳴るまで何も言わなかった。
 何も言わないまま、サルは六年生になるとき転校した。一学期の始業式の朝、サルはもう教室にいなかった。転校したことなんて誰も知らなかった。「お父さんの仕事の関係で」と、六年生になっても担任を続けた小島先生が、出席を取る前に説明した。

1 2 3 4 5