小説

『嘘とウソ』宮沢早紀(『早池峰山の神様(岩手県花巻市)』)

 幸子はペン先をしまったままのペンを婚姻届の上に走らせ、記入のシミュレーションをしていた。薫がその様子をじっと見ていると、幸子が顔を上げた。
「年齢をごまかしてたの、あの子にすっごく怒られてね……笑っちゃうわよねぇ」
幸子は婚姻届に目を落としたまま、ふふふと笑った。薫は卯年と偽っていた件だなと思いつつ、「いえ」と短く答えた。答えながら、自分にもいつか年齢をごまかしたくなる時が来るのだろうかと考えていた。
 幸子は握っていたペンを婚姻届の上に置くとぽつりぽつりと話しはじめた。
「私ね、けっこうな高齢出産だったんだけど、ここは田舎でしょ? 四十近くなって産んだ人なんて、当時はいなくてね。直樹がお友達からからかわれたりしないかなって心配で……だから、ずっと卯年っていうことにしてごまかしていたのよ」
「そうだったんですね」
 薫の中に新鮮な驚きと安堵が同時に広がった。卯年と偽っていた理由が「かわいいから」というのは、直樹の思い違いだったようだ。幸子は自身が気にするほど年齢がいっている風には見えなかったが、今、そのことを伝えたところで幸子が喜ぶとも思えなかったため、薫はただ短い相づちを打った。
「花巻には『早池峰山の神様』の言い伝えがあってね、早池峰山を見た姉妹の神様が『あの美しい山の神様になりたいなぁ』って言って、枕元に蓮華の花が降りてきた方が早池峰山の神様になれるって決めたのね。姉の神様はすぐに寝てしまったんだけど、妹の神様は寝たフリをして様子を伺うの。朝になって姉の枕元に蓮華が降りてくると、妹はその蓮華を奪い取ってそのまま早池峰山の神様になっちゃったって言い伝えなのよ。だから、早池峰山の神様は人の物を盗ったり、嘘をついたりしても、一生に一度なら許してくれるって言われていてね。私の嘘も許してもらえるかと思って……」
「いや」
 幸子の話を黙って聞いていた薫はきっぱりとした口調で言い、幸子は目を見張った。大きな黒目が不安で揺れる。
「つけますよ」
薫は幸子の目をまっすぐに見て言った。
「え?」
「お母さんがついた嘘は直樹君のための嘘じゃないですか。早池峰山の神様は自分のために嘘をついたんですよね? だから、お母さんはもう一回、自分のために嘘をつけます」
薫は真剣な表情で一息に言った。一瞬にして幸子の顔から不安が消え、穏やかな笑顔が広がった。
「ありがとう。薫さんの言うとおりかもしれない」

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