「あ、あそこのラーメン屋うまいんだよね。久々に食べたいなー」
薫の隣では直樹がハンドルを握っている。長らく帰省できていなかったこともあってか、先ほどから目に飛び込んでくる景色の全てに反応しているが、薫はそのほとんどに曖昧な返事をするだけだった。
初めて訪れる花巻の景色をじっくり眺める心の余裕など今の薫にはなく、婚姻届の証人欄を書いてもらったらすぐさま仙台へ帰りたかった。
いっそ寝てしまえたらいいのにと目をつぶると、職場の後輩の美しく彩られた爪を不意に思い出した。ぷっくりとかわいらしく膨らみ、毎月色を変える爪。
薫は短く切られた自身の爪をまじまじと見つめ、爪先まで美意識を働かせられる女なら義母も喜んだかもしれないと思った。だが仕事に追われ、帰宅後は倒れるように眠る日々にそんな余裕などないことも確かで、結局はありのままの自分で勝負するしかないと思い直す。薫がそう思うのと同じタイミングで直樹が実家への到着を告げた。
「母の幸子です。遠いところをありがとうございます」
小走りで表に出てきた幸子を一目見て、薫は自身と対照的だと感じた。長身瘦躯で日に焼けた肌の薫に対して、幸子は背が低くふっくらとしており、色白だった。身につけている服も薫の紺色のシャツに黒いパンツに対して、幸子は花柄のワンピースだった。
薫たちを客間へ通した後もちょこちょこと動きまわる幸子の姿はシルバニアファミリーの白ウサギを彷彿とさせ、卯年と偽っていたのもあながち間違いではないのではないかと薫は思った。
出身地や仕事の話といった一通りの自己紹介を済ませた後、幸子が淹れた日本茶をすすりながら直樹が尋ねる。
「前に言ってたアプリのダウンロード? あれ、うまくいったの?」
「何のことかしら?」
「手芸の作品を出品するとか何とか言ってたじゃん」
「あー、できたできた。中村さんにやり方を聞いて、もう出品してるのよ」
「お母さん、手芸がお得意なんですか?」