小説

『朱美の物々交換』吉岡幸一(『わらしべ長者』)

 朱美の腕をつかむと男は歩き出そうとした。朱美は思わず悲鳴を詰まらせた。すると歩いていた周りの人たちの目がいっせいに振り向いた。男は慌てて手を離すと「違うんだ」と、言いながら急ぎ足で駅の中へと逃げていった。
「あんた大丈夫かい」
 状況を把握する間もなく買い物袋を抱えた中年の婦人が声をかけてきた。朱美は自分の身に起ろうとしたことが信じられなくて、心配して声をかけてくれた婦人にまとも返事を返すことができなかった。
 婦人はポケットから取り出した苺味の飴玉を朱美に握らせると「気をつけるんだよ」と、言い残して横断報道を渡っていった。朱美は礼を言えないどころか飴玉の代わりに鉛筆を渡すこともできないでいた。
 やっぱり私には無理なんだ。そう思って帰ろうとしたが、握りしめた鉛筆を見ているとくじけそうな気持ちが落ち着いてきた。
 この鉛筆は高校の購買部で買ったもの。鉛筆くらい買わなくても家にたくさんあった。家に忘れたから高校の購買部で買ったわけではなかった。いつも購買部で販売をしている眼鏡のおじさんに「鉛筆をください」と、自分から声をかけて買ったものである。ただ他人に自分から声をかけてみたかっただけである。声をかけた成果としてこの鉛筆はあった。たいしたことではないと笑われることはわかっていたが、それでも朱美にとっては小さな一歩を踏み出すことができた鉛筆だったのである。その鉛筆を見ていると、もう一歩前に進みたい、とくじけそうな気持ちが奮い立ってくるのであった。
 朱美は足をとめた。
「この鉛筆と物々交換してくれませんか」
 なかなかスムーズに声がでてくれない。見られることにも慣れてこない。
 溜息をついていると、学習塾の鞄を担いだ十歳くらいの女の子がふたり側にきた。ひとりの女の子が照れくさそうに鞄の中から、そっと消しゴムを取りだした。
「消しゴムでよかったら交換してあげる」
 スカートをはいた方の女の子が言うと、ズボンをはいた方の女の子はつまらなそうにしている。
 反射的に鉛筆を渡して消しゴムを受けとると、スカートをはいた女の子は元気に手を振りながら駅のなかに走っていった。その後をズボンの女の子が急いで追いかけていく。
 掌には透明なビニールの包装紙に包まれたプラスチック消しゴム。買うと少しだけ鉛筆よりも高いかもしれない。鉛筆の他にさきほどもらった苺味の飴玉をつけてあげればよかったと、朱美が思ったときにはふたりの女の子の姿はもう見えなくなっていた。
「この消しゴムと物々交換してくれませんか」
 この小さなきっかけから、朱美は次々と声をかけていけるようになった。自分でも信じられないほど大きな声が出せている。見られることにも慣れてきた。
 知らない人でもまっすぐに目を見て話しかければ思ったほど冷たい反応をされなかった。たとえ無視をされても、奇異な目で見られても、思ったほど傷つかなかった。それは、ときおり興味を持った人が立ち止まって物々交換に応じてくれるようになったからだった。

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