小説

『鷺』義若ユウスケ(『雪女』)

 虎丸の父、宮本虎一郎はもう長いこと村の猟師の頭領をしていた。数年前、虎一郎は村の猟師たちをひきつれて北の山脈を丸一日かけて踏み越え、弁天山という、その頃よく猪が獲れた山まで行ってコト子の父を殺した。どういう死に方をしたのか、帰ってきた猟師たちから猟の最中に事故がおきて夫が死んだと知らされたヤチは男たちに縋りついて狂ったように問いただしたが、誰もが言葉を濁して、ありゃあ事故じゃったんじゃというばかりではっきりしたことは何も教えてくれなかった。ヤチは自分の目で確かめに行った。女の足で何日もかけて弁天山まで行き、夫の体を探し回った。星の鳴るような夜だった。ヤチは白い息を吐きながら亡霊のように山腹の林を彷徨い歩き、ついに夫をみつけた。高い空から瞳のような月が彼女を照らしていた。猪の群れに襲われたのか、夫の体には無数の穴があいていた。体中の皮が無残に破れ、中身が裏返って黒い肉の花がいくつも咲いていた。腹から飛び出した内臓にはちいさな虫が大量にたかって闇の中でどくどくと息づくように蠢き、獣の糞をまき散らしたような凄まじい臭いがあたりに漂っていた。ヤチは固い土に膝をついて泣き崩れた。夫の顔は子供が粘土でこねて作ったようにでこぼこに膨れあがり、そこにひとつ、まぎれもない銃弾の跡が残されていた。砕けた目玉のかけらが干からびた樹液のように左の頬にぶらさがり、仄暗い眼窩の底で黒い鉛が冷たい光を放っていた。ヤチは夫の亡骸を抱きあげ、後頭部から鉛をひきぬいて夫を土に埋めた。村に帰ってもヤチはもはや男たちに何も尋ねなかった。ただ四六時中、弁天山から持ち帰った黒い鉛の弾を肌身離さず持ち歩くようになり、時おり畑仕事の最中に着物の袖から呟くようにぽとりと落とした。そしてそのままうずくまり、壊れたように動かなくなるのだった。まわりの畑で働いている女たちがみかねて駆け寄り声をかけてもヤチは眉ひとつ動かさず、やがて自分をみおろす無数の瞳をみつめかえして、ぞっとするほど透明な声でささやいた。虎一郎に殺されたんじゃ、みんな知っとる。虎一郎が以前、村の男どもが集まっておこなった賭けの席でヤチの夫と喧嘩になり、顔に生涯消えない傷を負ってずっと怨みをくすぶらせ続けていたことは村の誰もが知っていた。それから半年ほど経って、宮本虎次郎の死体が川でみつかった。彼は虎一郎の弟だった。浅瀬に突きだした大きな岩のうえで虎次郎は首から股にかけて腹を裂かれた状態で横たえられ、早朝の青い光の中で溢れだした内臓を小鳥たちに啄まれていた。何か硬いもので何度も殴られたのか頭蓋はひび割れてせんべいのように薄くのばされ、左目がくり抜かれていた。目撃者はいなかったがヤチがやったのは明らかだった。村人たちは彼女を追及しなかった。虎次郎が日頃からヤチに夜這いをかけていたことを村で知らない者はいなかった。ヤチが夫を亡くして以来、彼は毎晩のようにヤチの家を訪れて無理やり彼女のうえに跨った。ヤチの血を噴くような叫び声が村にこだましても誰も彼女を助けには来なかった。宮本はこの村の村長の家系だった。いずれは父の跡を継いで村の長となる虎一郎の弟に、わざわざ村の外れに住む貧しい未亡人のために何か意見をいおうとする者はいなかった。虎次郎はヤチの体を弄びながら、部屋の隅で頭から毛布をかぶってすすり泣いているコト子にいずれはお前もじゃ、もうちいと大きゅうなれや、じきにちゃんと相手してやるけんな、と毎晩笑いかけた。ひとつヤチにとって思いがけなかったのは、コト子が虎丸と仲良くなってしまったことだった。虎丸は両家の事情を知ってか知らずか虎次郎の葬儀の席でおもむろに母娘のもとへ歩みより、村人がみな静まりかえってみている前でコト子の唇を奪った。少年はその日から父やヤチの目を盗んでコト子のもとへ訪ねてくるようになった。いつも山辺の花や川で釣った魚を手土産に現れては恥ずかし気な眼差しでコト子をみつめ、そんな行為とは裏腹につらつらと憎まれ口をたたいて帰って行く虎丸を、コト子は好ましく思った。こっそり友達になろうかともちかけたのはコト子の方からだった。父を亡くして以来、コト子は学校に通っていなかった。虎丸はよく学校をさぼってコト子に会いに行った。二人は何度かキスをした。そんな幼い逢引きを横目に見過ごしながら、ヤチは静かに待っていた。粉々に砕けた心がもう一度だけ形を取り戻し、もう一度だけ人を殺せるようになるのを待った。ヤチは虎丸がついに鳥を撃って男になったことを知って、少し微笑ましいような気持ちで今日をその日にしようと思った。彼女は台所の窓から首のないサギを表へ放るとコト子に今日は自分で夕飯を作るように告げて包丁を手に家を出た。虎丸はまだ玄関の前にうつむいて青い顔で立ちつくしていた。ヤチは笑いかけ、別にお前を怨んどりゃあせんよ、お前もコト子を怨むんじゃないぞといって少年の横を通り過ぎた。虎丸はぎょっとしてふりかえり、震える包丁の光が道の先へ消えて行くのをみおくった。いつしか村は夕暮れの薄闇に包まれていた。鋭い風が切り裂くように吹きつけた。村の上空では厚い灰色の雲が巨大な蛇のように渦を巻いていた。コト子が玄関のガラス戸を開けて少年の名前を呼んだ。これから晩御飯つくるんじゃけど、その鳥、使わせてもらおうかな。そういって、コト子は彼に腕をのばした。虎丸は足元のサギを拾った。もういちど後ろをふりむくと、遠い山肌で幼い子供たちが天使のような笑い声を散らしながら駆け回っていた。コト子が虎丸を呼び、ひとりで家の中にもどって行った。虎丸は水をくぐったような気分で少女の後を追った。少年の背後で静かに雪が降りはじめた。雪はやがて勢いをまして吹雪となり、全てが白く閉ざされていく中で女は自らの胸に光を突きたてた。黒い鉛が冷たい床を転がった。

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