小説

『リベンジするほどパッションはない』もりまりこ(『ブレーメンの音楽隊』)

 マンションから一歩も出られなくなってから栞は、ここベランダから外を眺めることも少なくなっていた。久しぶりにみる風景。なにかを俯瞰しているこの行為は、いつか<船の科学館>からプールを俯瞰して写した写真を八雲とふたりで観た時に似ていた。
 プールの水色も、煉瓦色を薄めたようなプールサイドも人も浮き輪もビニールのベンチも、おまけにまわりの植栽も、ぜんぶがにせものっぽくてつくりものだと思っていたのに、ぜんぶが実在する場所と人を写したことに気づいて、あっというまにヤラレタねってふたりで笑った。小気味よく負けた時は気分がいい。ふたりのなかで、その写真家はある種、神のような存在にしばらくなっていた。俯瞰する行為は神様が見ている視線だからというのが、八雲の見解だったことも手伝って。
 遠近感が失われて、この平たくのっぺりとした空間がなんどか実際に訪れた場所である記憶のほうがあやしくなってくる。
「ひょんな世界やったな」
 八雲が呟いた。
「がんじがらめな、なにかから解放されて」
って栞が続けると「あっちがほんまなんや、すがすがしい」って八雲が引き取った。
 価値観はいちどゼロにしてからのほうが大事なんやって八雲が広告のデザインをデザイナー達にだめだしするときによく言っていた。わかったようなわからないようなそのアドバイスは、いま腑に落ちた感じがしている。こんなに時差をすりぬけたいま。たぶんなにかが酸化してじぶんのものになったんだろう。
 栞は仕事の行きと帰りに東京の雑踏を歩いていると、すれ違うひととひととの渦の中に放り込まれた瞬間、ぎゅっと名付けられないどこかが、しめつけられるようなことがあって。
 実在だとか実績だとか履歴だとか。そういうものすべてが煩わしかった。

<うそっぽいですね>
 ふいに口笛が聞こえてきた。ふじみは、まだベランダに居たいみたいなので栞もそっと付き添っている。
<澪がしんでから、まちがうそっぽいんです。いま澪がいきかえったとしてもおんなじだとおもうんですけど。うそっぽいってべつにわるぐちじゃないですよ>
 口笛長い。でも栞はなんとか理解できた。頭の中でなかなか息継ぎができないでいたから、
<ジオラマ、おもちゃみたい>
 短くふじみは口笛をふいた。そして長すぎる腕を伸ばして左右に振った。
 ベランダからの街並みがおもちゃのようだといいたかったらしい。

 手摺に手を掛けて覗いてみる。

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