小説

『リベンジするほどパッションはない』もりまりこ(『ブレーメンの音楽隊』)

 実際にマンションの入り口から一歩出てみると、思いのほか難しいことではないことを知って、拍子抜けした。大切にしまいすぎていたものはいつか失くしてしまうもんや、っていう八雲の声が聞こえてきそうだった。
 夜の通りは、香ばしい匂いの風がどこからともなくやってきて、それが鼻腔をさすような
匂いへと変化した。森が近いらしい。森にゆくまでの間、幾人かとすれ違った。
 まだ若いふたりの男女がいた。彼らの口元は尖っていて、音が奏でられているのが解った。
 口笛を吹いているらしい。でもその意味は、栞にはなにもわからなかった。

 森の入り口に着く。
 ふじみは、土の上に膝をつくとそこを掘り始めた。ちいさな穴を作る。パーカーのポケットからアボカドの種をとりだして、その穴に埋めた。
<あぼきゃー>
 って短く口笛を囁いた。澪はよくアボカドのことを、あぼきゃーあぼきゃーって楽しそうに言っていたのを栞は思い出す。ふじみもそれを知っていたらしい。
<ふたばがでたらこっちのもんですね>
 ふじみは何度かトライしても双葉すらでなかった澪の仇のようにアボカドを植えた。 
 小さいけれど、深く深く土を抉った。
 ふじみは、うまく笑顔をつくれない人のような微笑み方をして栞をみた。
 栞もぎこちなくたどたどしく応えた。すべてを知りつくしている人のような微笑みは、彼の口角から去ってゆかなかった。

 さらさらと流れ去ってゆくことをゆるさないような、たしかな土。なんども踏みしめられた後の、頑なさをしんじてしまいたくなる。その土は、濃密な時間の積み重ねがそこにあることを、ひっそりと、内包しながら、年月を重ね続けていたことを教えてくれた。
 もともとあるべきだった場所にもどってゆく。そんなぼんやりとした輪郭が、浮かんだり消えそうになったりしながら栞の耳は、ふじみが奏でそうな口笛の音のはじまりだけを、ただ待っていた。

1 2 3 4 5