小説

『君という銀貨』小山ラム子(『星の銀貨』)

 バケツを持って出入り口に向かったわたしの背中に、星野は大きな声で「ありがとう!」と言った。
「星野ってさ、なんでそんなにみんなの言うこと聞くわけ?」
 掃除が一段落し、わたしは前から聞きたかったことを口にした。
「あのね、お母さんがよく言ってたの」
「お母さんが?」
「うん。私が小さい頃に亡くなってるんだけどね。すごく優しかったのを覚えてる。それでね『困っている人を助けてあげられる人になりなさい』ってよくわたしに言ってた」
「だからみんなの言うことをきくの?」
「うん。お母さんみたいな人になりたいから」
 困っている人がいたら助けてあげる。道徳教育なんかでよく聞く言葉だ。クラスの連中の顔を思い浮かべてみる。あいつらは本当に困っている人なのか?
「ねえ、星野はそれでいいの?」
「え?」
「だってここの掃除くらいやろうと思えばできるでしょ。そんなに困ってないじゃん。困ったフリしてラクしたいだけでしょ。星野は利用されてるだけだよ」
 星野は目を見開いて黙りこくっていた。
「星野?」
 心配になって肩に手を置くと、その手を勢いよく払いのけられた。
「そんなこと言わないでよ!」
 星野が初めて怒るという感情を見せる。驚いて弁解しようとしたが、星野は荷物を持ってそのまま出て行ってしまった。一人取り残されてため息をつく。わたしは踏み込みすぎてしまったのだろうか。わたしから見たら星野は利用されてるようにしか見えない。いや、実際そうだろう。でも星野がそれに気づいていないとしたら? みんなに感謝されてると思っていたとしたら? それはそれで幸せなのではないだろうか。だとしたらわたしはなんて余計なことをしたのだろう。
 家に帰ってからスマートフォンを片手にわたしは頭を悩ませていた。わたしからメッセージを送るなんてとてもめずらしい。しかもこんなに文面に気をつかうなんて。でも肝心の文章がうまく書けない。いいや、もう電話してしまおう。
『もしもし』
 予想外に、星野はすぐにでた。
「もしもし? あのさ、今日のことなんだけど」
『ごめんね!』
「え?」
『鈴岡さんが言ったこと本当にそのとおりだと思う。でもわたし気づいてないフリしてた』
 そうだったんだ。よかった。星野は本当は気づいてたんだ。
「だったらさ、これから変えればいいじゃん」
『でも怖いよ。誰からも必要とされなくなっちゃう」
「わたしがいる」
『え……』

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