小説

『トイレの平田さん』山名美穂(『祇園精舎』)

 古い校舎の鐘の音、掃除開始の合図です。

 
 3学期が始まったら、トイレの平田さんがいなくなっていた。

 学校には当然、掃除の時間がある。割り当てられた箇所を、各班が週替わりで清掃するのが決まりだ。教室とか、廊下とか、図書室とか。
 しかし僕たち生徒が、トイレの掃除をすることはない。
 この学校のトイレは、専門業者の人が掃除をすることになっている。いつからかは分からないけど、そういうシステムになっている。
「昔はトイレ掃除だって子どもがやったのよ」
 母さんは言う。
「きっと、汚いから自分の子どもにやらせたくない親もいるのね」

「平田さん」は、その学校のトイレ掃除を生業としている人だ。僕が入学したときには、既に「平田さん」として存在していた。
 平田さんは、お兄さんというには年上すぎて、おじさんというには若すぎる年ごろの、メガネをかけた、痩せた人だった。いつもジャージの上下に、長靴と分厚いゴム手袋というかっこうでいる。彼がトイレを掃除するのは主に授業中なので、僕たちと顔を合わすことは、あんまりない。でも、生徒が休み時間に廊下を走るのを見ると、意外と大きな声で注意をするので、一部の男子からはうっとうしがられていた。
 それでも誰も彼を呼び捨てにすることはなく、暗黙の了解のうちに、または伝統的に、みんな「平田さん」と呼んでいた。そのうち苗字に枕詞がついて、僕がいる4年1組では「トイレの平田さん」という愛称で統一されるようになった。ついでに平田さんの掃除した後のトイレはいつもピカピカだったので、下の名前は「清(きよし)」に違いないというのが、みんなの結論だった。バカだな。

 そのトイレの平田さんが、いなくなった。
「平田さんは、病気のため、しばらく来ません」
 担任が、3学期最初の学活の時間に言った。
「教室の前のトイレは、4年1組が掃除をすることになりました」

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