小説

『トイレの平田さん』山名美穂(『祇園精舎』)

 周囲からも不満の声が上がった。しかし先生がそんな生徒たちの声に耳を貸すわけがない。掃除当番表に急きょ「トイレ」が追加され、班の垣根を越えて、トイレ担当に男子ふたり、女子ふたりがじゃんけんにて選出された。
 そのうちのひとりが、僕である。

「まじで嫌なんだけど」
 もうひとりの男子、加藤が言った。加藤は声がうるさいほどでかくて、威勢だけがいいタイプの人間だ。得意なことは体育だけ。どちらかというとおとなしい部類に入る僕とは、あまり気が合わないのだった。使い捨ての薄いビニール手袋とデッキブラシ、洗剤と便器をこするブラシが突っ込まれたバケツ。僕たちは、それら一式を与えられ、しぶしぶトイレ掃除に取り掛かった。

 改めて入ってみると、古い冬のトイレは寒くて薄暗くて、薄気味悪かった。それに率直に言って、臭い。他人がおしっこしたり大便をたれたり、時々ゲロがぶち撒かれていたり、そういう場所を掃除するのは、とても嫌だ。
「つめてっ」
 僕は顔に飛んできた水に驚いて振り返る。
「ごめんごめん」
 そこには、デッキブラシを如意棒のように回す加藤がいた。
「おい、これトイレの床の水だろ」
「だからごめんって」
「まじめに掃除しろよ」
「はいはい、うるさいなぁ」
「先生に言う」
「言えば」
「本田マリに言うぞ」
「やめろよ、ごめんなさい」
 本田マリとは、加藤が思いを寄せる女子である。
「いと憎し」
「お前のそういう言い方、時々ムカつく」

 清掃タイム終了のチャイムが鳴り、結局トイレ掃除は志半ばという感じで、中途半端に終わった。水道の凍るような冷たい水で、これでもかと手を洗いながら、僕は思った。平田さんが掃除をするのは、このトイレだけではない。隣の女子トイレも、同じ階にある音楽室近くのトイレも、1階も3階も、全部である。一日中学校の糞便にまみれて…はいないけど、ともかく餓鬼どもが使うトイレを、週5で掃除しているのだ。ひとりで。誰とも話さずに。時々生徒に注意をする時以外は。
 ちょっと尊敬した。

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