小説

『川せみになる』菊武加庫(『よだかの星』)

「ずっとそう思ってきたよ。でも間違ってた。幸恵なんてどうでもよかった、きっと。からかわれたり、傷つけられたり、それは辛かったけど、そんな相手は大切な人じゃなかったの。軽蔑することはあっても絶望するほど大事な相手じゃなかった。だから幸恵のせいなんかじゃない。大嫌いだけどどうでもいいの。私今、あなたが何をしても、どうってことないくらい遠くにいる。そんな日が来ることが分からないほど幸奈はバカじゃなかった。本当のことなんてわからないけど、私のほうがきっと謝らなきゃならない。それですむことじゃないけど。でも忘れない」
 幸恵は何も言わなかった。幸奈の死はこの人なりに打撃で、自分のせいだと噂されることに怯えたことがあったのかもしれない。その狡さや卑しさがもう隠せなくなっていた。これ以上こんな女と関わる意味はない。

 バスを降りて、戻ることにした。もみじ山にはあれから一度も行っていない。中三の遠足はずる休みをした。幸奈は自分で死んだ。あの子らしくない赤いチェックや、オレンジのフリース。きっと早く見つけてほしかったのだろう。私にはわかっていたよ。時間がたって自分の体が硬直し、違うものになる前に、少しでもきれいな姿で帰りたかったんだね。
 小学生のとき、よだかが出てくる話を読んで泣いた。よだかが旅立つ決意をしたとき川せみはこういった。
「にいさん、いっちゃいけませんよ」
 そう言えた川せみは、私より強かったのだろうか。私には川せみほどの美しさも優しさもなかった。だけど川せみだって何もできなかった。川せみは悔やまなかっただろうか。悔いて、悼んで泣くことはなかっただろうか。
 明夫に電話をした。四角い顔と後姿が目に浮かぶ。
「ごめんね。寄りたいところがあるから遅くなる。きっと私疲れるだろうから、あとで迎えにきてほしいのだけど」
 あのとき、この携帯電話があったなら言えただろうか。
「いっちゃいけない。私一人になるじゃない」

 さあ、登ろう。幸奈が何に絶望したのか本当のことはわからない。私やほかの弱い子たちが彼女を隠れ蓑にしていたように、幸奈だって怖くて沈黙したことがあり、自分を許せない日があったのではないか。理由も事実もどうだっていい。どうせわからない。喪ったものが大きくて、ずっと見ることができないでいた。それだけがわかることだ。だけどきっと一度も行かなかった私を今日は待っていてくれているだろう。わからないけど忘れない。
 あの日のように寒くはない。でも現れ始めた星がきれいなのはおんなじだ。思いっきり下りのペダルを踏んだ幸奈が見えたようで目の前がぼやけた。あのころ、こんなふうに泣きたかったのにできなかった。ガードレールを越えたとき、幸奈は星を見上げて笑っていたにちがいない。きっと映画のシーンのようにきれいだったよね。
 あのね、私結婚したんだ。四角いさいころのような顔だけどいい人だよ。今度こそ絶対守ってみせるよ。せめて「いっちゃいけない」と目を見て言える人になる。
 もみじ山の頂上はすぐだった。

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