小説

『川せみになる』菊武加庫(『よだかの星』)

 出ようとした言葉は喉元ではりつき、いつもみたいにひりひりと痛いだけだった。怖かったのだ。出会ったことのない悪意に、自分を晒す勇気がどうしても持てなかった。大好きな物語に出てくる主人公のように正義感を持って闘うことなどできなかった。どうすることが正しいのかわかっているのに。
 幸奈の悲しげな目から、表情が消えた。半年近く耐えてきて、あと数ヶ月でクラス替えではないか。この冬を越したらきっと変わるよと、ごまかしたい私が見たのは、空洞になってしまった幸奈の目だった。
 いつもより言葉少なに自転車を押しながら二人で帰った。まともに目を合わせられなくて話ができなかった。二人が好きな漫画の場面や、歌の話も苦しくてできない。俯くと、幸奈のスカートが揺れて視界に入ってくる。幸恵と違って折り目がぼやけたプリーツが悲しい。お母さんが忙しくて、幸奈も忙しくてスカートの折り目なんて後回しの後回しだ。少しだけ他の子より事情を知っているのに。家に着くまでこんなに時間がかかると感じたことはなかった。
「じゃあ。さようなら。行かなくちゃ」
「また明日ね」
 幸奈は「行かなくちゃ」といった。「帰らなくちゃ」ではなくそういった。「ばいばい」ではなく、「さようなら」といった。私は違和感に気づいていたのだ。おかしいと思っていたのだ。
――どこにいくの。
――今日はごめんね。
 言えなかった。苦しくて早く幸奈と別れて楽になりたかった。肩の荷を下ろしたかったのだ。一番の友であるはずなのに。私や他の弱い子たちが幸恵の悪意や、さゆりの無神経さに晒されないですんでいるのは、幸奈がいるからだった。幸奈の無数の傷の上に私の平穏な生活が守られている。そのことに気づき背中に冷たい何かが下りていった。

 幸奈は次の日の明け方死んだ。私と別れて帰宅した後、一人で家を出た。夜の7時を過ぎていたが、家には小学生の弟しかいなかった。「ちょっと出かけるからご飯食べていて」と冷凍の餃子を焼いて、炊飯器に米を仕込んでいなくなったと、弟は言った。すぐに戻って来ると思って行先も聞かなかったらしい。
 体格のいいおかっぱ頭の幸奈は目立つ。珍しく私服で自転車をこぐ姿をあちこちで見られていた。赤と緑のチェックのシャツに太めのジーンズ、その上にオレンジのフリースを羽織っていた。
 そのまま自転車をこぎ続け、こいでこいで、もみじ山の頂上まで登り切った。正式な名称があるに違いないが、子どもたちはその山をもみじ山とよんでいた。秋に紅葉が美しく、そのままそれが呼び名になっている。標高三百メートルにも満たない山だが、そのまま登るなら結構しんどい。しかし車やサイクリングで行けるよう頂上までアスファルトの道が作られており、裏からは近道になる登山道も整備され、地元の小中学校では秋の遠足はもみじ山と決まっていた。アスファルトの道はうんと小型版のいろは坂といったふうに何度も曲がりくねっていて、車だと三回に一度は誰かが車酔いをする。

1 2 3 4 5 6 7 8 9