小説

『邪眼』末永政和(太宰治『燈籠』)

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 申すも恥ずかしいことでございます。永野さんとは、ことしの夏、ちかくの病院で知り合いになりました。永野さんは左の眼に眼帯をかけて、不機嫌な表情で独逸語の辞書のペエジを繰っていました。窓の向こうに陽炎がたち、植え込みの樹木がめらめらと燃え上がっているように見え、永野さんのお顔もまた、なにか異様な空気をまとっているように見えたのです。削げた頬は日本刀の刃紋のように、怪しい影と光を宿しているように思われました。
 眼帯に隠れた左眼を、私は見てみたいと思いました。きっとそこには、異形の瞳がらんらんと光っているはずなのです。邪眼かもしれません。双瞳かもしれません。あるいはオッドアイ? どんな色をしているのかと思うと、私はもういても立ってもいられないのでした。私はひとめで人を好きになってしまうたちですが、もしかしたら今回のは恋などではなく、永野さんの得体のしれない力に痺れていただけなのかもしれません。
 やがて永野さんは診察室に呼ばれていきました(このとき、彼の名前が永野さんであることを知ったのです)。そのとき強い風が巻き起こって、窓ガラスをがたがたとふるわせました。
 耳を澄ませると、診察室から医師と永野さんの会話が聞こえてまいります。
「風かね」
 医師の問いに、永野さんは「風ですね。ナーゼンシュライムが止まらないのです」と答えました。
 嗚呼、ナーゼンシュライム! 無論私にはそれが何を意味するのかなど分かりませんけれど、きっと何か特殊な力に違いないのです。永野さんのナーゼンシュライムが、一陣の風を呼び寄せたに違いないのです。
「はははは、ナーゼンシュライムか。ちゃんと薬を飲むことだよ」
 医師の言葉が聞こえてまいりました。嗚呼、薬に頼らなければ、永野さんは力を制御できないのでしょうか。
 永野さんは夏にもかかわらずくるぶしまで隠れるような黒いロングコートを着ていましたが、診察室から出てきたときにはコートを丸めて小脇にかかえ、黒のタートルネックに薄汚れたジーンズという格好でした。セーターの向こうにあばらが透けて見えそうなほど、痩せていらっしゃいました。きっと漏れ出す邪気をおさえられず、哀れなほどに痩せてしまったのだと思います。コートを着ているあいだだけ、力の漏出をおさえることができるのかもしれません。
 私は恥ずかしい女だと思われぬように、偶然を装って永野さんに近づこうとしました。持っていた文庫本(それはボードレールの「悪の華」でした)を隣に座った永野さんの方にわざと落して、気をひこうとしたのです。
 狙いどおり、永野さんは身をかがめて「悪の華」を拾ってくださいました。そして私に手渡そうとした刹那、二人の指先が重なって、電気がほとばしったのです。季節は夏です。静電気とは思えません。私は確信しておりました。永野さんの秘めたる力に、私が感応してしまったのです。能力の目覚め。覚醒。私の左眼も永野さんと同じように、何らかの変化を来しているはずです。

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