小説

『邪眼』末永政和(太宰治『燈籠』)

 聞けば永野さんは天涯孤独の身で、誰にも頼ることなく夜間の学校に通っているといいます。生まれつき備わっていた特異な力のせいで、実の親からも見放されたのでしょうか。学校で何を習っているのかを永野さんは教えてくれませんでしたが、きっと人には言えない、魔術か何かを習っているのだと思います。かすかに永野さんの体からは香のにおいが漂ってきて、それも何らかの儀式を連想させるのでした。
「来週、友人と海に行くことになっていてね。それまでに体を治さなければいけないんだ」
 永野さんはそう言って寂しく微笑みました。海だなんて! 私は耳を疑いました。冬の日本海ならまだ分かります。打ち付ける波濤を前に、両手を広げて詠唱する永野さんなら容易に想像がつくのです。しかし夏の海など、海水浴など、断じてあってはならないことです。永野さんの裸体が白日にさらされたとき、一体どうなってしまうことか。体をつつむ魔障の気は日の光とぶつかって、良からぬことが起こるに違いないのです。
 一刻も早く、パラソルを用意しなければいけないと私は思いました。海へ行くのをやめさせることができないなら、せめて日陰を用意しなければならないのです。永野さんは見るからに貧しそうで、海水着を用意するのさえ困難なように見えます。私が何とかしなくてはならない。しかし私とて、貧しい下駄屋のひとり娘でございます。自由になるお金などそうそうあるはずもなく、しかし事態は急を要しています。

 盗みをいたしました。それにちがいはございませぬ。百貨店に飾られていたパラソルを引っこ抜いて、私は脱兎のごとく駆け出したのです。つかまるはずはない。なぜなら私はあの病院で、永野さんの力を分け与えてもらったのだから。私は永野さんと同じように左目に眼帯をし、黒いコートを着ていました。慣れぬ格好ゆえに、夏の暑さで汗だくでした。よほど目立っていたのでしょう。あっというまに私は取り押さえられ、交番に突き出されたのでした。
 おまわりさんは私の名前や住所や年齢をひととおり尋ねたあと、にやにや笑いながら「こんどで、何回目だね?」と言いました。ぞっと寒気を覚えました。このままでは身に覚えのない罪まで着せられて、何年も牢屋に入れられるかもしれません。いいや、目の前の男はおまわりさんなどではなく、闇の使いに違いない。力を得た私に恐れをなして、完全に覚醒する前に手をうとうとしているに違いないのです。
「私の何が悪いのです」
 私は勇気を振り絞って言いました。

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