小説

『翳りゆく部屋』末永政和(『地獄変』芥川龍之介)

ツギクルバナー

 眠るように、妻は息を引き取った。私は涙を流すこともできず、妻の手を握りしめたまま立ち尽くしていた。私の呼吸は乱れることもなく、その平静さがかえって悲しかった。
 人は死を迎えると、すべての重さから解放されると聞いたことがある。確かに握った右手はその瞬間、ふっと軽くなったように思えた。妻の顔にはそれまでの闘病の影もなく、幼子の寝顔のように安らかだった。
 秋の陽はまだ高く、ベッドに横たわった妻の亡骸に午後の光が当たっていた。階段をのぼる子どもたちの声が聞こえたが、いつにない静寂に事態を悟ったのか、ためらいがちな足音が行きつ戻りつしていた。私は長男のアランを呼び寄せて、窓辺の椅子に座らせた。
「奥様、亡くなられたのですか?」
 死というものに初めて触れたアランは、困惑気に妻の死顔を見ていた。見てはならぬものをそっと盗み見るような素振りであった。私は無言で首を横に振って、アランを使いに走らせた。質屋にあずけた妻の首飾りを取りに行かせたのである。それは貧窮の果てに手放した、妻の大切な宝石のひとつだった。すっかり痩せてしまった妻の首元を、せめて飾ってやりたかった。
 結婚してから十年、私と妻の間に子どもはできなかった。しかしこの家には、アランを含めて五人もの子どもがいる。私のパトロンの妻である、ビュラン夫人の子どもたちだ。ビュラン氏は私にとって初めてのパトロンであり、夫人と子どもたちを押し付けて姿をくらませた張本人でもあった。事業に失敗して借金取りに追われ、国外に逃亡したのだと夫人が申し訳なさそうに語っていたが、実際のところはどうだか知れない。もともと夫婦仲はうまくいっていなかったようだし、病床の妻と二人きりの生活よりも、美しいビュラン夫人とその子どもたちに囲まれた生活のほうが私にはありがたかった。
 他の子どもたちがこの部屋に近づかぬようアランに言い含めておいたおかげで、私と妻とは世界から取り残されたように、静けさのなかでじっと向かい合うことができた。何か語りかけたかったが、口を開けば自分の身勝手さを悔やむ言葉しか出てこないような気がして、私は黙り込むことしかできなかった。せめて妻の死顔から目をそらすまいと、それだけを自分に言い聞かせていた。

 妻と出会ったころ、私はまだ駆け出しの画家で、絵の具を買うのにも事欠くような暮らしをしていた。画家仲間から使用済みのカンヴァスを借りて、その裏に絵を描くことも多かった。いつか世間に認められる日が来るのを夢見ながら、結局のところは妻に無理を強いるだけの生活を送っていた。
 当時、私は画家仲間や批評家から「猿」と揶揄されていた。際立って背が低く、骨と皮だけのように痩せこけていた。おまけに猫背で両腕が奇妙に長かった。赤ら顔で目がぎょろりと飛び出していて、額もはげ上がっていた。物心ついたころからそんな容姿で周囲から蔑まれてきたせいか、私は人付き合いがうまくできず、世間話のひとつもできないような性格だった。女性にモデルを頼んでも、みな気味悪がって逃げ出してしまう。カンヴァスで間を隔てているとはいえ、無言で長時間向かい合うのを誰もが嫌ったのである。

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