モデルを務めてくれたのは妻だけだった。知人からの紹介ではじめて私のアトリエを訪れた時、彼女は私の容姿を厭うどころか、部屋に立てかけてあった小さな風景画を見て、はらはらと涙をこぼしたのである。
「こんなに美しい雪景色を、私は見たことがありません」と彼女は言った。それは陽に照らされた雪景色のなか、一羽の黒い小鳥が垣根のうえで羽を休める様子を描いた作品だった。
この世の光のすべてを描きたいと、私はそのころ本気で思っていた。自分にはそれができると信じ、だからこそ実績もないのに傲慢でいられた。光を描くためには世間一般の描き方ではなく、もっと新しい技法を模索しなければならなかった。妻が目を留めたのは、そんな試行錯誤の末に完成させた一枚だった。
アトリエを訪れるたびに、彼女はその雪景色に目を奪われた。他の風景画も手放しで褒めたが、雪景色だけは特別であったらしい。結婚してからもこの絵を売りに出すのを拒み、自分の手元に置きたがった。だからこの絵は、今この瞬間も、妻のベッドの脇に立てかけられている。
たとえ醜い姿であったとしても、絵を描き続けるかぎり、私は妻にとっての光でいられる。そして妻もまた、私にとっての光なのだった。ねじ曲がった私の心は、妻の前でだけは真っ直ぐだった。
光を描く、私はそれだけを心に誓って、カンヴァスに向かい続けた。同じ風物を描くにしても、時間の経過とともに光は姿を変えていく。天候や季節の移ろいとともに光も変わり、描くべき対象はまったく違った姿をとどめる。光を描くということは、永遠をとらえるのと同質であったかもしれない。それは終わりのない旅路のようなものだった。何を描いても満足などできず、それでも描き続けることしかできなかった。
二年前に妻が体調を崩して寝込みがちになっても、私は戸外での制作を控えはしなかった。夫としての責任から逃れたかっただけかもしれない。ようやくパトロンが見つかったとはいえ、生活の安定とはほど遠い。私は描き続けなければならなかった。
やがてパトロンのビュラン氏が失踪し、残された家族と私たち夫妻とは奇妙な同居生活を送ることとなった。貧しいながらも笑いの絶えない日々だったが、妻だけがその輪から外れていた。妻は二階の狭い部屋に閉じ込められて、病とさびしく闘っていた。妻を看病するのはビュラン夫人の役目だったが、二人がどんな会話を交わしていたのか私は知らない。
妻もかつては、ささいなことで良く笑う明るい女だった。制作がうまくいかずふさぎ込む私を辛抱強く励まして、せめて気が紛れるようにと部屋中を花々で飾ってくれた。貧しさへの不平など一度も口にしなかった。「あなたが健康でいてくれれば私はそれだけでいいのです。あとはこの絵が手元にあれば……」そう言って、雪景色の絵をうれしそうに見つめるのだった。
病に自由を奪われて、それでも懸命に笑おうとする妻を私は見ていられなかったのだ。かわいそうな妻を、私は気がつけば忌むようになっていた。多少の蓄えはあったとはいえ、家族が一挙に増えたせいで生活は困窮を極めていた。病床の妻を私は足手まといだと感じるようになっていた。