小説

『天井ウラウラウラ』松明(『屋根裏の散歩者』)

ツギクルバナー

 アパートの管理人が殺虫スプレーを持って玄関に現れた。
「ええと、最近、ちょっと虫が多いみたいだからね、配らせていただいてるんですけどね。いるでしょ、芋虫みたいなの」
「はあ、いますね」
「穴とか隙間に吹きつけておけばね、入ってこれないから、ええ、お願いしますね」
 滑舌の怪しい老人が去ったあと、三郎は渡されたスプレーのラベルを読んだ。火気厳禁。使用の際は十分な換気を行ってください。誤って飲んでしまった際は医師の診断を受けてください。
 その瞬間、悪魔のようなアイデアが閃いて彼は決心する。
 よし、隣人を殺そう。
 三郎が住んでいるのは、地盤沈下のせいで南に数度傾き、手抜き工法のせいで補修工事の絶えない五階建てアパートの三階。ひどい物件だが、貧乏大学生にとって手ごろな家賃は大きな魅力だった。たまに虫が湧いたりはするのもご愛嬌。慣れてしまえば風呂場の壁を這う芋虫に愛情すら湧いてくる。
 どうしても許せないのは壁の薄さである。隣人も学生らしいが、毎晩のように仲間を部屋に上げてどんちゃん騒ぎをする。彼の安眠はそのたびに破られ、結果として今日も彼の目の下には深い隈ができている。
あんなやつらは害虫だ。
 と、彼は常日頃から心の中で罵っていたが、何ひとつ行動には移さず、アパートの廊下で出くわせば愛想笑いを浮かべ挨拶した。小心者の悲しい性である。しかし、もう我慢の限界だった。寝不足の疲れが隣人への殺意を燃え上がらせていた。
 彼はスプレーの成分をインターネットで調べる。かなり強力で毒性の強いものらしく、運が悪ければ数滴で死んでしまうらしい。空のペットボトルの中にノズルを突っ込んで噴射し続けると目薬一本分くらいの液体が溜まった。
 押し入れの天井には設置の甘い点検口があって、ここからアパートの階のあいだの空間に上がることができる。先月、三郎は偶然この入り口を見つけ、それ以来たびたび天井裏の散歩を楽しむようになっていた。本来アパートの天井裏には隔壁があり、隣の部屋の天井裏へは行き来できないようになっているのだが、杜撰な工事のせいで隔壁に大穴が空いているのも知っていた。
 ペットボトルを携えて天井裏に上がり、暗くて狭い空間を這って隣の部屋の真上に向かう。そこには先週発見した小さな穴があった。寝室のベッドの真上に開いていて、常々、この穴から何か落として嫌がらせをしてやりたいと彼は夢想していた。
 穴を覗きこむと、大口を開けた憎き男が見えた。今朝まで続いた酒盛りに疲れて眠っているのだろう。
 千載一遇のチャンスだ。

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