三郎はペットボトルを傾けて透明な劇薬を穴に注ぐ。液体は男の上唇を濡らし、そのほとんどが喉に流れ込んだ。反射的に嚥下する音にぎょっと身をすくめながらも、彼は真下の光景から目を離すことができない。
やがて男は苦しみ始めた。咳き込むようにしてごぼごぼと嘔吐し、手足を振り回してベッドから転げ落ちる。死に際のゴキブリみたいだと彼は思う。
十分ほどで断末魔のダンスは終わった。
三郎は喜びのあまり床を転がりまわる。身悶えするたびに低い天井に手足がぶつかって音を立てていたが、彼は気づかない。
やった、やったぞ、ついに害虫を駆除したんだ。
逮捕されるという恐れはなかった。天井裏への入り口はこのフロアのすべての部屋にあり、行き来は自由。しかも殺虫スプレーはこのアパートの住人全員が持っている。もし警察の手が入ったとして犯人を特定するのは不可能に近いだろう。そう高をくくっていたのである。
緊張が解けると猛烈な眠気が襲ってきた。そんなわけで、彼は自分の殺した男の真上で眠りこけてしまう。
ああ、今夜はいい夢を見られそうだ。
床下で重い物音がするのを聞きつけて、アパート四階の一室に住む明子は決心した。
よし、虫を殺そう。
夜な夜な床下を這いまわる音に気づいたのは一ヶ月くらい前。まるで人間みたいに大きな物音だけど、きっと新種の芋虫だろうと彼女は考えていた。明子はこのペット禁止のアパートで猫を十六匹飼うほどの動物好きで、芋虫だって生きているのだと思うとついスプレーの使用をためらってしまう。しかし、もう我慢の限界だった。
彼女は心を鬼にして、リビングで戯れていたポーとプーを避難させてから、ダイニングテーブルの下のマットレスをめくった。ポーが引っ掻いて作った裂け目にスプレーのノズルを入れて噴射する。
床下でばたばたと何かが暴れ出す。
虫にしては重量のあるそれは、十分ほど床下で苦しみ続けた。罪の意識から明子はわんわん声を上げて泣き、ただならぬ事態を悟ってか、猫たちは口々に鳴き声を上げた。ひとりの泣き声と十六匹の猫の合唱はアパート中に響き渡った。
やがて音が止む。床下の芋虫は死んだらしい。
見たことのない虫の冥福を祈って彼女は手を合わせる。ソファに座ってプーを膝に載せ、サイドテーブルに置きっぱなしだったコーヒーカップを手にとる。
なんだか、変な味がする。
まあいいか、とコーヒーを一息に飲み干してから、何気なく天井を見上げてそれを見つけた。猫を撫でながら呟く。
「プーちゃんのおめめみたいね」
小さな黒い穴が彼女を見下ろしている。
1 2