小説

『窓辺の夫婦』草間小鳥子(『錦絵から出てきた女の人』)

 浦島太郎の話、知ってるでしょ? と恋人はストローをくわえた。ぼくはうなずき、恋人に「あっち側」とは何かきいてみようとしたところで、午後のチャイムが鳴った。
 夕方、アパートへ戻ってきたぼくは、影に向かって手を振ってみた。影は、ゆらりゆらりと手を振り返してくれた。しかし、外階段をきしませ、部屋に入ると、やはり窓辺にはだれもいないのだった。

 夜もふけたころ、レポートを書きながら眠りかけていたぼくは、ドアを叩く音で目が覚めた(ぼくの部屋には、チャイムがない)。続いて、
 「ごめんください、夜分に失礼いたします」
 と若い男の声がドアの向こうできこえた。都会の夜はこわい。ぼくは眠い目をこすりながらも、用心深くドアにチェーンをかけたまま顔を出した。その男は、ぼくと同じくらいの年格好で、作業着のようなつなぎを着ていた。夜中にこのあたりですれ違ったとしても、夜間工事の人かな、とたいして気にもせず通り過ぎてしまうだろう。にこにこと愛想は良いが、廊下の蛍光灯のせいだろうか、青白い顔をしていた。ぼくは警戒した。都会では、表向き愛想の良い人ほど、腹の底では何をたくらんでいるかわかったもんじゃないということを、ぼくはすでに学んでいた。幽霊より、生きている人間の方が、ずっとこわい。
 「どなたですか?」
 ぼくは慎重にたずねた。男はそれには答えず、
 「とつぜんお邪魔してしまい、すみません。あの、急なお願いで大変恐れ入りますが、この部屋を手放すご予定はないでしょうか?」
 と笑顔を貼りつけたまま言った。手放す? この部屋を? ぼくは面食うどころか、深夜の訪問者の不躾な質問に腹が立った。たまに、郵便ポストに『物件売りませんか?』『高価物件買い取ります!』というチラシが入っていたりするけれど、こんなボロアパートに用のある不動産業者などいないはずだ。悪質ないたずらか、何かの罰ゲームか、変質者か、宗教勧誘か、いずれにしろ相手にする必要はない。
 「ないです。帰ってもらえませんか?」
 できるかぎり冷たく、言い放った。しかし男は、
 「お話だけでもきいていただけないでしょうか?」
 と引き下がらなかった。ぼくは、間に合ってますから、と短く答え、男の鼻先でドアを閉めた。ドアの向こうで、
 「明日またうかがいます」

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