小説

『キオ』大前粟生(『ピノキオ』)

 鼻がキオの内側と擦れる音が止まったときにはおじいさんは死んでいた。キオが立ち上がった。
キオは自分の体を興味深そうに眺め、おじいさんを見た。キオは口を開けたが、声は出なかった。パパ、といおうとしたようだったが、本当のところはわからない。キオは屑山からいくつかの部品を取って自分の鼻にあてがい、作業をしはじめた。遠くで雲が鳴る音が聞こえた。

 おじいさんが街中を歩いていたとき、男の子の父親は、妻を支えながら家路についていた。妻を支えることで壊れそうな自分をなんとか支えていた。家に帰ったが、男の子の遺影を見ることができなかった。だが、リビングには家族写真があり、目に入った。父親はじっと見てしまった。妻はソファに座りながらなにかつぶやいていて、父親はどうしようもなくて、写真立てを掴んでフローリングに叩きつけようとしたが、それもできなかった。おじいさんを殴った手は震えていた。手におじいさんの血がついているのが腹立たしくて、石鹸を使って執拗に洗った。大方は消えたが、皺には血が染み込んでいて、火の川のようだった。

 雲が動き、鳴る音はどんどん近づいてきて、青空が暗くなる。その下のスクラップ置き場では、なにかのモーターが稼働するような音が聞こえているが、雨が降りはじめるとともに止まった。
キオがスクラップ置き場を出たとき、強まった雨で屑山が崩れて、おじいさんが埋もれた。キオは振り返らなかった。涙の跡のように顔についていた血は、雨で徐々に落とされていった。血は雨に代わって、雨は涙と混ざった。

 外はもう、本物の夜になっていた。男の子の父親はねむっていて、ベッドの横の棚にはアルコールの強い酒瓶が置いてある。母親の目は開かれていて、虚ろな天井に固定されている。まばたきさえしない。手はクジラの帽子を強く掴んでいる。
 闇が満ちた部屋に、パッと雷がひらめいて、窓ガラスが一瞬、部屋の隅にキオの姿を映すが、すぐにまた暗くなった。きゅる……きゅる……。なにかが回転する音が聞こえる。遅れて、雷の轟音が響く。きゅるる……きゅるる……。雷がひらめく。キオは母親のすぐ側に立っている。ぎゅるるるるるるるる――
「ゲン、おかえり」
 母親の声は、雷の音とキオの鼻が回転する音でうまく聞こえない。
 電灯のスイッチを消したり点けたりするように雷が連続し、光が点滅する部屋のなかで、ゆっくり、ゆっくり、キオの鼻がドリルのように凄まじく回転しながら、母親に近づいていく。

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