小説

『vanishing twin』朝蔭あゆ(夏目漱石『変な音』)

ツギクルバナー

 はじまりがいつだったのか、それはわからない。
 絶えず聞こえる音があった。
 大きくゆるやかに響く音、そして小さく速く響く音。
 寝ても覚めても暗闇の中に充満するそれは、ぼくのそれと重なりそうで重ならない。
 ゆえにぼくは、世界に自他のあることを知った。
 まだ何も発することのできないぼくらは、小さな小さな音と音を寄せ合うほかに術を知らない。どこまでもこの無重力の中を、たった一本の命綱を頼りにたゆたう。
 それが何であるかはまだ知らない。ただ傍らにあることを知っている。
 そして互いの小さな音に、やわらかな、実体のない安堵を覚えるのだ。
 共有するものは空間であり、時間であり、闇であり不安であり、互いにとって互いがたったひとつの音だった。途切れることなく続くそれだけが、ぼくらの間の約束だった。
 ぼくは、一枚だか二枚だか、仕切りを隔てたその向こうの気配を探る。まだまだぼくらは小さくて、何かに触れることは叶わない。それでもきっと、向こうでも、ぼくを感じているのに違いなかった。
 限りなく漠々と流れるここでの時間が、寸分狂わぬ音によって刻まれていく。そしてそれは確かに、ぼくらをこの場所に繋ぎとめているのだ。束縛はすなわち、安らぎだった。
 ぼくは眠る。深淵に沈む。
 純粋な混沌の夢から醒めると、音がひとつ、消えていた。
 ぼくはそれが何であるかを知る前に、その何だかわからない何かを失った。
 まだ何も手に入れていないはずのぼくは、喪失を知った。
 突然消えたのだろうか。それとも少しずつ、少しずつ弱くなって、そしてついに消えたのだろうか。
 ぼくの隣にいた何かは、その時暗闇の中で手を伸ばしただろうか。
 ぼくに助けを求めただろうか。
 はじまりのわからない空間と時間はぼくだけのものになり、小さく刻む音に縛られなくなったぼくは自由を手に入れた。自由こそすなわち、喪失だった。
 ある時ぼくは、どうやらこの世界の終わりを見つける。否、ぼくがいたこの場所はまだ世界などではなく、ぼくは世界未満の何かにしがみついていたに過ぎなかった。

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