小説

『ザ・ガール・ネクスト・ドア』中村吉郎(『鶴の恩返し』)

 男性は今にもケンジに殴りかかろうとする素振りを見せた。車内にはこれを止めようとする人はおらず、皆、関わりを持ちたくなさそうな表情で、三人の周りに空間が出来た。一人の乗客が、スマートホンを取り出し、この光景を動画におさめている。それに気づいた男性は、ここで騒ぎを起こすとまずいと思ったのだろう、意外と素直に電車を降りたが、女性に向けられていた怒りはケンジへの憤りに移行した様で、ドアが閉まる直前、ケンジに向かって「貴様、こんど会ったらタダではすまないからな!」と捨て台詞を吐いた。電車は動き出し、女性の隣の空いた席には、先ほどスマートホンで動画を撮影していた学生風の男性が座った。女性は小さな声でケンジに「ありがとうございます」と言って、そのまま下を向いて座っている。何となく居心地が悪くなって、ケンジはドア側に移動した。
 四駅目でケンジは電車を降り、ギターケースが改札にぶつからない様気を使いながら駅を出た。振り返ると、先ほどの女性もこの駅で降り、改札を出て、ケンジの後ろから歩いて来る。このまま無言で距離を取って歩くのも不自然な気がして、ケンジの方から声をかけた。
「さっきはどうも。オレ、迷惑なことしてないですよね」
「とんでもないです。助かりました」
 電車の中では気付かなかったが、並んで歩くと、女性は意外と背が高く、ヒールをはいて、176センチのケンジとほぼ同じぐらいの身長だった。
「偶然、同じ駅だったのですね」
「はい。この先のマンションに住んでいるのです」
「オレもです。この先にあるメゾン・ド・グルーに住んでいます」
「本当ですか?偶然、私もメゾン・ド・グルーですよ」
 女性は、初めて笑顔を見せた。整った顔が笑うと可愛らしくなるが、目尻に出来たしわが、思ったより年齢が上であることを物語っていた。三十代後半ぐらいかも知れない。でも、その目尻のしわも、若いケンジには大人の女性の魅力に感じられた。

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