台風が近づいていることもあり、その夜はひどい天気だった。平日の夜に記録的な強風と豪雨。客足が鈍くなるのも無理はない。バー「モンキーアンドシザーズ」のマスターは客が一人もいない店内でグラスを磨いていた。古き良きアメリカを彷彿させる内装と控えめに流れ続ける六十年代の洋楽は、荒れた天気とは裏腹に店内の雰囲気を柔らかく丸めている。
銀座のとある雑居ビルの地下にある「モンキーアンドシザーズ」は知る人ぞ知る隠れた人気店だ。場所柄、高額で敷居も高いバーが多い中、その店は価格も雰囲気も庶民的で、なによりマスターの穏やかな性格が客を呼んでいた。四十代半ばのマスターは黒く長い髪を後ろで一つに束ね、顔つきは精悍、体型も細身で長身と、とても四十代には見えなかった。バーテンダーとして黒のベストを着ているとファッション誌に載りそうなほどの容姿で、大いに女性客をにぎわせた。こじんまりとした店内は十五人もいれば満席だったが、週末になると立ってでも一杯飲みたいという客が殺到した。
そんな「モンキーアンドシザーズ」にもその日は夜中までまったく客が来なかった。今夜はもう店じまいにしよう。マスターは店内の清掃を始めた。
「まだ開いてますか?」
マスターが客席のテーブルを拭いていると、びしょ濡れになった女が入ってきた。曲がった傘が台風の大きさを物語っていた。「雨も風も強くて傘が壊れちゃった」
「もちろん開いてます。こちらへどうぞ」マスターはカウンターにコースターとハンドタオルを置いた。「いらっしゃいませ」
「ありがとう」女はタオルで濡れた髪や服を拭きながら言った。
「何にしましょう?」
「ジントニックを」
「かしこまりました」
女は服装や化粧の仕方から、品の良さがうかがえた。控えめで主張せず、それでいて顔だちは整っていた。どうやら三十代半ばのようだが、落ち着いたその仕草や雰囲気は二十代にも五十代にも見えた。
タオルをカウンターに置き、女はタバコに火をつけた。「電車が止まってて帰れないの。困ったものね」
「風邪をひかないようにお気をつけください」マスターはグラスにジンを注ぎながら言った。「温かいものもお出ししましょうか?」