芳子が去って二年が過ぎた。
私はすっかり創作意欲を失くしているのだが、細君と子供たちを養うためには何か書かねばならない。必死の思いでつまらぬ小説を捻り出し、なじみの編集者が義理で雑誌の片隅に載せてくれる。なんとかその繰り返しで糊口を凌いでいた。
今や私の元には原稿を取りに来てくれる者もおらず、自らの手で出版社に持ち込むしかなかった。昨夜書き上げた原稿を風呂敷につつみ、
「行ってくる」
と細君に声をかけて家を出た。外へ出るのは二週間ぶりで、いつの間にか春めいていることに驚いた。日差しが心地よかったのは束の間で、すぐに外套の下が汗ばんできた。だらだら坂を下りながら、外は暖かいことを教えてくれなかった細君をちらりと恨んだ。そういえば長いこと細君とまともに話した覚えがない。
坂の途中で、ふと振り返って我が家を見た。周囲の家よりいくらか大きい二階家は、手入れの行き届かない鬱蒼とした庭木のせいで、かえってみすぼらしく見えた。あの二階に芳子がいたころは、この坂を上って我が家へ向かうのにどれだけ心はずんだことだろう。
芳子。今どうしているだろう。
芳子は私の弟子だった。女学校を出て文学の勉強をしたいと、親に連れられてやってきた。
私たちの間に淡い想いがあったと、今でも私は信じたい。だが芳子は田中という若い男と恋に落ち、親に許されず郷里に帰っていったのだ。
私に残されたのは、芳子が使っていた萌黄唐草の蒲団だけだった。
それ以来私は、芳子のいた部屋を書斎にしてほぼ終日をそこで過ごす。そして毎晩芳子の蒲団にくるまって眠るのだ。芳子の体臭、髪の匂い、襟に当てたビロードの汚れさえ愛おしく、まるで芳子を抱きしめているかのように恍惚として眠る。
芳子がいなくなって初めて、細君は私の気持ちに気づいた。芳子への執着、いや芳子の蒲団への執着というべきか。