SOMPO認知症エッセイコンテスト

『上書きされた幸せ』yukari

 高齢の認知症患者は、赤ちゃん返りをする。
 九十六歳の祖母もまさしくそうであった。突然ぐずり出して暴れたり、私が来客と話していると嫉妬して物を投げつけてきたり、食事や着替えなど自力で出来る時でも(出来ない時もある)私に甘えてきたり。約一世紀生きた赤ちゃんの暴君ぶりは相当なものだった。
 更に、徘徊する祖母を深夜に捜し回ったり、入浴介助をようやく終えたばかりなのに、三十分前に夕食を食べた事も忘れ、冷蔵庫を漁って顔や手をジャムまみれにしてパンを貪る祖母を再び洗ったりと、介護に暇はなかった。 
 おむつ替え一つにしても、これから成長してゆく先の楽しみがある赤ん坊とは違い、未来への希望がないため、九十余歳の祖母の下の世話は介護の中でも気が重い仕事だった。 
 両親も古稀を過ぎ、老々介護が心配だったので、近所に住む私が実家に日参し介護を手伝っていた。だが、祖母の病状が進行するにつれ、母の負担も大きくなり、心労も重なっていった。そして遂に母が鬱を発症したため、夫の理解を得て、私たち夫婦は実家で暮らす事に決めた。
 私は自宅でピアノを教えていたので、グランドピアノも実家に移した。居間にピアノを搬入し、音が狂ってないか確認しながら試し弾きしていると、寝巻姿の祖母が焦点の合わぬ目でフラリと現れた。私を母(曾祖母)だと誤認している祖母は、子供のように訴えた。
「お母さん、お腹が空いたよ」
 ……またか。うんざりと重い溜息を吐いた。
 さっき、苦労してやっと食べさせたばかりなのだ。仕事と家事と介護と引っ越し作業。疲労も限界に達していた私は苛立ちも露わに、
「もうすぐ出来るから、待ってて」
 適当な言葉を吐き捨て、立ち上がるとーー
「わあっ、ピアノだ!」
 祖母はピアノを見るなり一変し、パっと顔を輝かせて子供のようにはしゃいだ。
「お母さん、これ、私のピアノ?無理だって言ってたのに買ってくれたのね。こんなに大きな、立派なピアノなんて……夢みたい」
 祖母はまるで宝物に触るような手つきで、漆黒に艶めくピアノを愛おしむように触り始めた。生きているというよりも、ただ生かされているという感じだった虚ろだった目が、生まれ変わったように活き活きと輝いている。
 その瞬間、はっと思い出した。
『おばあちゃんも子供の頃、ピアノを習いたかったんだよ。でも当時は戦時下で、ピアノなんてそんな贅沢はとてもできなかったから。ユカリはいいね。好きなだけピアノが弾けて』
 幼い頃、私がピアノを弾いていると、祖母は傍らで聴きながら、しみじみとよくそう言っていた。眩しいものを見るように目を細め、憧憬を孕んだ眼差しでピアノを眺めながら。
「おばあちゃんも弾いてみなよ」
 そう私が勧めても、祖母は首を横に振った。
「おばあちゃんには無理だよ。ピアノを始めるには、さすがに年を取り過ぎちゃったよ。でも、憧れのピアノを可愛い孫が弾いてくれるだけで、おばあちゃんは充分幸せだから」
 幸せと言う割には、祖母の笑顔は何だか寂しげで、幼心にも強く印象に残っていた。
 なのに、あれから三十年が経った今――
 祖母はピアノの前に腰を下ろすと、なんと待ちきれないように人差し指だけで辿々しくピアノを弾き始めたのだった。調子っぱずれの鼻歌を口遊み、まるで少女時代に還ったようにあどけなく笑い、出鱈目に弾いていた。洞のように空虚な瞳に生気が蘇り、楽しそうにピアノを弾く祖母を目の当たりにし、胸に熱い感情が込み上げ、涙が溢れ出した。
――ああ、そうか。祖母は今、戦争で奪われたあの遠い日々をやり直しているのだ。ピアノに憧れ、「平和な時代になったら、いつかきっと」と願っていた少女時代を。
 背後から嗚咽が聞こえ、振り向くと母が泣いていた。目が合うと私たちは互いに笑い合った。祖母の病状が悪化し、母が鬱を患ってから初めて見た、晴れやかな母の笑顔だった。
 24時間、認知症患者の介護をしながら暮らす家族の苦しみは、それを経験した者でなければ分からない。葛藤は日々尽きる事なく、母のように先に介護者が心身共々参ってしまう事もある。認知症は大事な記憶や、かけがえのない思い出を奪ってゆく残酷な病だ。祖母が宣告された時、家族は皆、絶望を感じた。
 だが、絶望の中にもちゃんと希望はあったのだ。苦闘の日々の中でも、こんな風に幸せを感じられる瞬間もあった。笑顔でピアノを弾いていた祖母を見て、私たちは心から幸せを実感できた。介護という先行きの見えぬ暗闇のループを手探りで進む私たち家族にとって、祖母のあの姿はようやく掴む事ができた一条の光明だった。だって、祖母は戦争で喪われた最も美しい時代を、憧れていた夢をほんの僅かな時間でも取り戻し、幸せな記憶に上書きすることができたのだから。
 その日から、祖母は稀に一日のうち何分か少女に還った。あどけない笑顔でポロン、ポロンと辿々しく一本指でピアノを奏でるたび、私の心にも秋の木漏れ日のように柔らかくあたたかな感情がポロン、ポロンと零れ出す。