SOMPO認知症エッセイコンテスト

『女同士の秘密』宮沢早紀

 指定された喫茶店へ入り、兄の柊平を待つ。喫茶店なんて言葉を使うと「カフェだよ」と中学生になる娘に笑われそうだと夏子は思った。
 柊平から電話があったのは先週末だった。「母さんのお金のことで話がある」と言われ、「ついに振り込め詐欺の被害に遭ってしまったのか」と慌てて尋ねたが、柊平の素っ気ない説明によれば詐欺被害に遭った訳ではないようでホッと胸をなでおろしていた。
 しかし、わざわざ会って話すほどのこととは何だろう。夏子はあまりいい予感はしていなかった。
 窓の外を見ると横断歩道を渡ってこちらへ向かってくる柊平の姿が見えた。会うのは半年ぶりだったが、四十代になって出はじめた腹は膨らみを増したように思えた。
「お待たせ」
 柊平はホットコーヒーを片手に夏子の向かいに座る。
「早速だけど、母さんの件ね」
 すぐに本題に入るのが相変わらず柊平らしい。
「母さんの口座の残高を定期的に確認してるだろ? この間、記帳したら一度に十五万も引き落とされてて、慌てて確認したら母さん、脱毛に通いはじめたとか言うんだよ」
「脱毛? 脱毛って若い子が通う?」
「そう。無理やり契約させられたのかって聞いたんだけど、自分で決めたんだとか、これは私のお金だとか、もう通いはじめちゃったからって全然聞かなくてさ……」
 柊平はため息をついた。全く想像していなかった事態に夏子は閉口した。柊平は苛立った様子で続ける。
「急に色気づいて、もしかして恋人でもできたんじゃないかと思ってさぁ。夏子から聞いてくれないか? そういう話って女同士の方がしやすいだろ?」
「恋人……母さんに?」
 柊平と夏子の父、つまり母にとっての夫は二年前に他界していた。浮気にはならないな、と妙な安心感を抱きかけた夏子は慌てて我に返る。
「とりあえず、聞いてみるわ」
 気持ちの整理がつかないまま、柊平からの依頼を引き受ける形で夏子は柊平と別れた。

 三日後、夏子は実家の母を訪ねた。夏子はどんな些細な変化も見逃すまいとアンテナを張る自分が、まるで探偵のようだと思いながら母の服装や家の中のものには変化はなさそうなことを確認する。
「どうしたの、急に」
「近くに用があったからさ」
 実家までは電車を乗り継いでおよそ二時間。車を持っていないこともあり、盆と正月以外に実家に帰る機会はあまりなかった。
 新恋人の存在を確認しなければならないとわかってはいたが、どう切り出したものかと夏子は思案した。気にせずに聞ける親子もいるのだろうが、夏子は気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。柊平が聞いてくれれば、と今更ながら頼りない兄を腹立たしく思った。
「ねぇ、最近変わったことない?」
 考えた末に夏子は直接的な聞き方はしないことにした。
「え? どういう意味?」
「いや、その……なんか、お母さんきれいになった気がするから……」
「はぁ? 別にそんなことないと思うけど」
「そっか……」
「もしかして、脱毛の件? 新しい恋人でもできたと思った?」
 母は紅茶を一口飲むと、声を出して笑った。
「そんな遠回しな聞き方して」
「ごめん」
 考えていたことを見事なまでに母に見透かされていたのが恥ずかしく、夏子は俯いた。
「介護脱毛っていうの」
 介護脱毛。夏子は初めて聞く言葉だった。介護を受ける時に備えて早いうちからアンダーヘアを脱毛することを言うらしい。母の説明によれば陰部の炎症や感染症を防ぐ他に、おむつ交換時のにおいを軽減する効果もあるようだ。
「身内に頼むにしても介護士さんのお世話になるとしても、下の世話をしてもらうのって悪いじゃない?」
 母は申し訳なさそうに言った。確かに自分が母の介護をやるとなると、下の世話は精神的な負担が大きい気がする。夏子はまだ介護のことを具体的に考えたことはなかったが、母の気持ちはわかるような気がした。
「これを柊平にどう説明するかよねぇ……」
 母は困った顔で夏子を見た。
「いいよ、私から話しておく」
 気が付いた時には、夏子はそう言っていた。母は一瞬、意外そうな顔をしたが、その後、嬉しそうに微笑んだ。服や宝石にお金を遣った訳ではない。介護脱毛の費用を捻出するために美容院にもしばらく行かないで節約したのだろう。一つに括った母の髪から所々飛び出す白髪を見て、夏子はそう思った。少し前の母だったら月に一回は美容院へ通って白髪染をしていたのだ。介護脱毛は母の備えであり、気遣いであり、そして、最後のプライドなのだ。気にしない性格の柊平に理解してもらうのは難しいだろうから、女同士の秘密にしておこうと夏子は思った。

「結局、恋人はいたの?」
 後日、柊平に聞かれる。面倒な役回りを押し付けておきながら呑気なものだと思いつつ、夏子は平然と答える。
「違う違う」
「じゃあ、脱毛は?」
「あれは母さんのプライドよ。自分の意志で契約してるし、他で節約もしてるから問題ないと思う。じゃ、パートあるから」
 呆気にとられる柊平を残して、夏子は颯爽と立ち去った。