「そういう可愛げがないところだよ!」
チカの背後で男が声を上げた。チカは振り返らなかった。ふと、そういえば仕事に追われて髪の毛を二カ月ほど切っていないことをチカは思い出した。来週重要な顧客面談があるから美容室行って整えておかないと、となぜか頭の中で冷静に考えている自分がいてチカはふっと笑った。
2 勘違いされる女
「マナミちゃん、また男性社員に言い寄られてるんだって?」
給湯室でお局様がにやけた顔で聞いてくる。前にいた総務部で懐かれて以来、マナミが給湯室に行くタイミングを狙ったかのように、茶渋のこびりついた湯呑を持って現れる。勤続年数の長さだけが取り柄、社内ゴシップだけが楽しみの女性で、マナミは少し軽蔑している。。
「またどこからそんな話を聞いたんですか? ただの噂話ですよー」
軽蔑の色をおくびにも出さず、マナミは弁当を洗っていた手を止め、貼り付けた笑顔で対応をする。無視をすると後が面倒臭い。そんなこともつゆ知らずに、マナミの隣で湯呑を洗い始める。
「営業の女性の、あ、名前なんだっけ。ほら、この前、辞めちゃった人。その何とかさんの彼氏、マナミちゃんが好きなんでしょ。その人が会社辞めた理由も、引き抜きっていうのは表向きで、マナミちゃんを好きになった彼氏に捨てちゃったからなんでしょ?」
お局様がマナミの顔を覗き込む。お局様の目は獲物にありついた獣のようにらんらんと輝いている。その目尻にファンデーションがめり込んでおり、獣の面皮を思わせた。思わず目をそらした瞬間、お局様の枝毛だらけの毛先が目に入った。
「どうなのよ? 実際、言い寄られているんでしょ?」
「それは誤解です。同じ課の先輩なので、業務上の相談に乗ってもらっただけです」
「そうなの?」
「はい、そうです。やましいことは一切ありませんから」
お局様がそれ以上聞きたそうにこちらを見ていたが、マナミは視線をそらしてまた弁当を洗い始めた。水は冷たかった。
マナミは昨年に新卒で入社して以来、新入社員教育の一環ということで社内の部署を四カ月ごとにローテーションした。適性を見てから二年目に配属が決まるということだったが、マナミの場合は、事務企画部、営業管理部、総務部、と主に事務の裏方の部署をローテーションで回った後、今年四月に人事部からなぜか広報部に配属された。
要領が良くない、と自覚しているマナミは入社時から熱心に先輩に業務の相談を持ち掛けた。女性のよりも男性の先輩の方が、熱心に指導してくれた。業務上の相談をしているうちに男性の先輩たちから好意を示され、交際を申し込まれたが、丁重にお断りをした。というのも、マナミは純粋に業務の相談がしたかったのであり、男女の関係になるということは考えてもいなかったからだ。
先日、同じ広報部の男性の先輩に交際を申し込まれたのは、マナミにとっては青天の霹靂だった。営業部に同期の彼女がいる、と聞いていたからだ。彼女がいるのにどういうことなのか、と問いただしたマナミに「君のために別れたんだ」と言ったあの男。別れてくれなんて頼んでいないのに。純粋に広報部の先輩と後輩でいたかったのに。もちろん、マナミは交際をお断りしたが、広報部で毎日顔を合わせるのが心苦しく、部内でも腫れもの扱いにされているのが辛かく、人事に異動願を出した矢先だった。