―娘の前髪は綿菓子のようにふわふわする―
葵の髪は母である私によく似た癖っ毛で、特におでこの生え際の癖が強くて綿菓子のようにふわふわくるくるする。小学校に入ってからは前髪を伸ばして、うしろになでつけてポニーテールをつくってあげた。毎日なでつけているうちにおでこの産毛もすっきりしてきて、ぴかぴか光るおでこがとてもかわいかった。
それが、中学2年のある日、突然前髪を切った。学校でかなちゃんに切ってもらったらしい。はやりの、薄い前髪にしたらもっと可愛いと言われたと照れていた。切ったその日はよかったが、一度お風呂に入ったら、おでこの前にあの綿菓子のようなふわふわくるくるした髪が現れてしまった。私は久しぶりに見る葵の強い癖っ毛に、小さかった葵を思い出して胸が震えるほどいとおしく思ったけれど、葵は目を潤ませて、明日から学校に行けないと言って震えた。そして次の日本当に学校を休んで引きこもり、前髪ごときで泣き出す娘を昨晩笑いながら見ていた夫も、さすがに心配してカールドライヤーを買って帰ってきた。カールドライヤーを受け取ったその瞬間から、葵と前髪の戦いが始まった。
その戦いはいつも葵が少し負けた。葵は前髪が何とか理想に近い形になると、そっとカールドライヤーを置いてスプレーに持ち替え、シューっと吹きかける。スプレー程度の刺激でも葵の前髪は委縮して、早くも不規則に丸まり始めてしまう。そのたびに葵は少し目を潤ませる。それでも行ってきますと出かけて行く。
小さい頃の葵の悩みは全部解決してあげられた。わがままをすべて聞いたわけではないけれど、どんなに泣いても怒っても、私と夫が大丈夫だと言って側にいれば、葵はいつも健やかに眠り、朝にははじけるように笑った。思春期になっても葵はまるごと私の娘だから、葵のコンプレックスも悩みも、それがどうした、私の葵だ、大したことな い、と思ってしまう。でも、前髪が丸まろうが四角くなろうが葵は私の可愛い葵であると言ったところで、それは私の娘への思いであって、私の娘であることとは関係のないところで葵が悩んでいるのであれば意味のない励ましだ。葵は、葵のために成⾧しているのだ。
そのことに気づいたのは美容院で高橋さんと話をしたときだ。高橋さんとはもう15 年の付き合いで、葵が生まれる少し前に出会っていたから、産後に髪が大量に抜けたときや、抜け毛が落ち着いたと思ったら白髪ばかりが生えてきたときの動揺と落胆を支えてもらった。それ以来ずっと高橋さんを信頼して、葵も見てもらっている。
「葵、毎朝ブローしてるの。でも前髪はすぐまるまっちゃって、憎らし気にしてるの。」
「雨が降ったら機嫌悪くなったり?」
「そうそう!雨の日はもう朝から乱暴。早く思春期が終わらないと家が壊れちゃう。」
私は笑って話した。可愛いもんだと思っていたから。でも高橋さんは真剣に言った。
「葵ちゃん、ストレートパーマをかけてもいいと思うんですよね。学校、だめですっけ?」
「ストレートパーマ?あの学校は自由だから平気だと思うけど。でも、いい、いい、大げさよ。」
「あとは、ヘアアイロンだともう少しブローが保つと思うんです。傷みが心配だけど、今傷みにくくさせるスタイリング剤もあるし。」
「カールドライヤーじゃだめなの?」
「カールドライヤーとか、ドライヤーのブローだと葵ちゃんの癖には限界ありますよね。」
高橋さんが葵の悩みに具体案を出すことに違和感があった。
「あとは、やっぱり前髪を伸ばしちゃうか。おでこもきれいだし、⾧くなれば癖も多少伸びますしね。」
そんなに真剣に考えなくてもよい、と言いそうになった。葵はまだ中学生だし、そもそも髪のことなど葵の本質ではない、と思いかけて、気づいたのだ。髪のことは葵の本質ではないと言って、何になるだろう。葵は毎日あんなに鏡に向き合っているのに。髪という要素は私の娘に対する思いに何の影響もないけれど、葵にとってはわからない。葵に今必要なのは、気にしなくても大丈夫だと受け止めてくれる保護者の励ましではなくて、専門家の具体的なアドバイスではないか。
「高橋さん、それ、葵に言ってくれてるの?」高橋さんは神妙な顔をした。
「まだです。葵ちゃんが相談してくれるの待った方がいいかなと思ってて。」
てっきり、相談しているんだと思っていた。私が抜け毛と白髪を相談したように。
「気にしてることを人に気づかれたくない気持ちもわかるから」
高橋さんは葵をひとりの顧客として尊重しているのだった。私の娘としてではなく、葵を葵として。考えてみれば当たり前のことだけれど、葵が自分の人生を生きているということが、突然わかってしまった。
「変な風に助けられちゃうと、それに気持ち持ってかれちゃうでしょう。葵ちゃんの主導権はいつも葵ちゃんにあってほしいんです。」
そうなのだ。葵は、葵の体と気持ちで生きていくのだ。葵のことは、葵がどうしたいかから始まらなくてはいけないのだ。今、母の私にできることは何だろう。娘も思春期だなとにやにや見守ってばかりはいられない。