駅に着いて、ツアーが解散するとき、芹奈さんが私のところにきて財布を出した。いいですよ、というと、芹奈さんはちょっと考えてから、時計を外した。お古で悪いですけれど、貰って下さいませんか。それはエメラルド色の小さくて綺麗な時計だった。断ろうかと思ったけれど、彼女にもうこれが必要なくなったことはわかった。じゃあ、いただいておきます。初めて自分のイメージ通りに切らせて貰った記念として。彼女がほほ笑む。いい笑顔だった。私の切った髪にちょうどフィットする笑顔。
弾さんにお礼を言うと、逆にありがとう、と言われた。あなたがおられてよかった。奇跡ですね、これは。おかげで、あのお客さんも喜ばれたし、私もいい経験ができました。名刺を渡して、近くに来ることがあれば店に寄って下さいね、というと、団体客を連れて大型バスで乗りつけますよ、と冗談を言って弾さんは笑った。
交差点に面したガラスの城の中で、私はときどき道に迷う。夜の掃除が終わって、最後のひとりになると、ときに自信をなくす。
そんなときは、あの日のことを思い出すことにしている。設備も何もないところで、涙を浮かべた芹奈さんの顔がガラスに写っている。彼女の一生ものの別れの舞台を、私のカットに賭けてくれている。私は目を閉じて、今この人にとってベストのヘアスタイルをイメージする。その時の、イメージを捕まえた自分を、そして、その後に見た芹奈さんの笑顔を、
思い返すのだ。
鍵を閉め、店を出て自転車に乗る私の左手首には、エメラルド色の時計が光っている。