ここが3人で生活をしていた団地なの?
毎日息を切らして上った急な坂道も、子供たちが遊んでいた公園も、去年買った我が家も、もはやどこにあったかさえわからない。
「麗奈。きっとお父さんは生きてる。レオンと一緒に頑張ってるよ」
陽子は武の死を覚悟したが、娘の手前、気丈にふるまった。
「・・・・」
麗奈は子供ながらに災害の大きさと、父親とレオンの運命を感じ取っていた。
私があの時レオンを助けてって言わなかったら、ひょっとしてお父さんは助かったのかもしれない。
そんな気持ちがこの現場に来た時から麗奈の心に芽生えていた。
光
大久保はカットをしながら、母親がそんな出来事をぽつりぽつり話すのを聞いていた。
「れなちゃんの好きなお勉強は何かな?」
「一番仲良しのお友達は誰かな?」
「大きくなったら何になりたい?」
できるだけ明るい話題を、この現実を少しでも忘れられるような時間を、たとえお父さんとレオンが帰ってこなくても、それは君のせいじゃないんだということを伝えたくて、大久保は一打一打気持ちを込めてハサミを動かしながら話しかけた。
背中まであった髪を肩の上でそろえ、前髪を切ったところで女の子の表情が変わった。
「お母さん、鏡見せて」
陽子は慌ててテーブルの上にあった手鏡を娘の前にかざした。
「麗奈、見える?」
「うん!かわいい!」
女の子が初めて見せた感情。笑顔。
重かったテント内の空気が変わった。
「かわいくなったねーじょうちゃん!学校でモテモテじゃのぅ!」
梶原もここぞとばかり盛り上げる。
簡単な仕上げをしてクロスをとる。
「どうもありがとうございました、娘も喜んでいます。ね、麗奈、よかったねー」」
「うん、おじさんありがとう!」
二人は手をつないで坂を下っていく。
「おいっ、良かったな、あの子見てみろ、スキップまでして帰りよるで」
梶原は二人が帰っていくのを見つめながら、大久保の肩をたたいた。
「おむすびもまぁ喜んでもろうたが、あの子を笑顔にするなぁなかなかできんことよのぉ。お前ええ仕事しよるのぉ」
梶原は大久保に、大久保の美容師という仕事に、少しばかり嫉妬した。
ひかり
「結局お父さんとレオンは助かりませんでした。しばらくはショックで寂しかったけど、あの災害のことを思い出すたびに、カットしてもらったことが蘇るんです。あんなに恐ろしい体験をしたのにそこだけぽっとひかりが差す感じに。それで私美容師を目指すことにしました。この春から美容学校に通ってます。今日は災害の追悼式があるので、そこに行く前に大久保さんに報告しようと思って。あ、いろいろ調べました。新聞とかボランティアの事務所とか。それで大久保さんのお店を見つけて今日来ました」
あの時の下を向いたままずっと黙っていた子とは思えないくらい、はきはきと麗奈はしゃべった。
「そうなんだ、お父さんとレオンは残念だったね。でも麗奈ちゃんがこんなに立派に育って僕もうれしいよ、店をつぶさないでやってて良かったよ」
経営が大変な時もあった大久保は、心からそう思った。
「つぶれるわけないじゃないですかっ、あんな仕事されるんですもの。もう生涯残る思い出です」
大久保は照れ臭いのを隠しながら、視界がゆがむのを我慢して、気持ちを込めてハサミを動かした。