突然、店の中から珠代さんの悲鳴が聞こえてきた。予想もしない切羽詰った声に、私は慌てて店に戻った。
坊主頭のまま立ち上がった珠代さんが彼の腕を止めようとしている。彼は髪を切るためのハサミを持っていて、自分の髪をバサバサと切っていた。自分で坊主にするつもりなのだろうか。すでにかなりの量が切り落とされている。
「違うの。本当は私、坊主なんかじゃないの」
「違わないよ。どうみても坊主じゃないか。僕も坊主にするから」
「本物みたいだけど、そうじゃないのよ」
あまりにきっちりとボールドキャップをかぶせたため、珠代さんはうまく外すことができなかったようだった。
私は力ずくで彼からハサミをとりあげると、そのまま隣の椅子に座らせた。そして勢いにまかせに彼の髪の毛を切りはじめた。自分で切った彼の髪はあまりにバラバラで美容師としてこのまま見過ごすわけにはいかなかったのだ。きれいにそろえると、彼が望む坊主のように短くなった。おかしくならないようにするには短くするしかなかったのだ。
彼の後で、珠代さんの被ったボールドキャップを丁寧に剥いでいった。頭の皮が剥がされたのかと彼は思ったようで、軽い驚き声をあげたが、ボールドキャップの下から本当の髪の毛が出て来て二度彼は驚いたようだった。
乱れた珠代さんの髪を梳かして、セットをし直した。ふわりとしたマッシュショートの髪が出来あがると、彼は三度目の驚きの声をあげた。
「珠代さんは坊主なんかじゃないのよ。ただのショートカットにしただけ」
「ごめんなさい。勝手に髪を切ってしまって」
珠代さんは彼に謝った。
「驚いたな」と、彼は言ったが怒っているようではなかった。「短い髪も似合っているよ」
「こんな私でも結婚してもらえますか」
別れるつもりでいたはずなのに……。私の思っていた通り珠代さんは彼と結婚したかったのだ。プロポーズされたはずなのに、珠代さんのほうからプロポーズをし直している。
「当たり前じゃないか」
坊主頭になった彼は椅子から立ちあがるとはっきりとした声で答えた。
美容院を長くやってきた私だったがこんなことは初めてであった。話の流れで婚姻届に書く保証人も頼まれてしまった。
彼がこの後、美容院『花』の客になってくれたのはありがたかったのだが、このことをきっかけとしてふたりから母親のように接して来られるのには困惑した。私は以前から珠代さんのような娘がほしいと思っていたけど、こういう形で娘のようになり、ついでといっていいのか彼までも息子のようになってしまうとは思ってもみなかった。
珠代さんは内緒にしていたが、どうやらお腹のなかには赤ん坊が宿っているようだった。結婚が決まってしばらくして打ち明けてくれたが、坊主のふりをしたとき本当に彼と別れてしまっていたらと思うと、胃がキリキリと痛くなってくる。
桜の木の先にある紫陽花の花が咲くころにふたりは結婚式をあげるそうだ。着付けと髪結いはこの美容院『花』ですることになっている。
私は街を見下ろす丘の上で美容院『花』を営みながら、やってくるお客さんの髪だけでなく、心もきれいにしていけたらと思っている。美容院の仕事は髪を切るだけではない。ときには他人の人生に彩りを与えることも仕事だ。
もうすぐ紫陽花の花が咲くだろう。澄みきった空のように、きれいな青い花が咲くことだろう。