それから一ヶ月ほど経ち、家族全員に半ば諦めの気持ちが出てきた頃、庭にどこかの犬が入り込んでいるのが見えた。すみ子は目をこらしてみたがまるで見覚えのない茶色の犬だった。
「あれ?あの犬、銀次郎?銀次郎だよ、あれ!」
健一と康太は窓際に走り出して叫んだ。
毛が汚れていて茶色になっていたからすぐに分からなかったけれど、よく見ると確かに銀次郎だった。全体にやせており頬は見事にこけていた。銀次郎は一生懸命庭の土を掘っている。以前自分で埋めた骨を探しに帰ってきたのだ。
「銀次郎」
少し離れたところから康太が呼んだ。銀次郎はまだ骨に夢中だ。
「銀次郎!」
やっとこっちをみた。ところが初めて人間を見たような冷め切った目でこちらを見ている。私たちのことはもう忘れてしまったように見えて悲しくなった。そのあとは静かに近づき無事うちへ帰って来ることができたのだ。そこから何日も日を重ね少しずつ元のやさしい銀次郎に戻っていったのだった。
銀次郎はその後もまた我が家の愛犬として、立派に私たちを癒し守ってくれた。私たちの勝手な都合で銀次郎の赤ちゃんはすべていなくなった。それでも銀次郎は変わらない笑顔で私たちの太ももに抱きつき、ちぎれそうなほど尻尾を振ってくれる。
本当の尊さを教えられたような気がして、すみ子は静かに目を閉じる。
三年前のことを思い出していた。
強くて清々しい風がショートにしたすみ子の髪をなびかせている。ほどよく心地よい感覚でゆっくりと目を開けた。
近所のおじさんが運転するトラックに家財道具すべてを詰め込み、すみ子は息子たち二人と膝を寄せ合い後部座席に乗り込んでいた。引越し先は釧路。美容専門学校に通うためだ。
数日前、突然の転落事故で亡くなった夫の葬儀を終え、冷えきった自宅のソファにぽつりと座るすみ子。わずか八年の結婚生活だった。正直これが現実なのかどうかも受け入れられずにいた。ふと足元を見ると水あめを一生懸命食べている健一がいる。次男の康太はすみ子の膝にしがみついている。ここにいる二人の子どもを見ていた。私はここで泣いている暇などあるのだろうか。そんな自分への問いかけに、
一瞬たりともない、が答えとなった。
この時すみ子は美容師になることを決意したのだ。それはもう気持ちいいくらい即決の決断だった。学生時代は毎日のように友だちの髪をセットしてきた。それだけで美容師になれるほど甘くないことは分かっている。しかしもう考えている時間はすみ子にはない。なにせお尻に火が付き、今にも火柱となるほどの凄まじい勢いなのだから。すみ子は即座に立ち上がり、全身燃える女と化し引越しの準備にとりかかったのだ。
すみ子たちを乗せたトラックは粗削りな走行音と振動をますます高め、新しい生き方に向かって加速していく。ディーゼルの臭いは好きではなかったが、今日だけはむしろ心を強くしてくれた。
窓に見えた夏の初めの空は、ため息が出るほど澄みきった青であった。ひたすら前を見つめるすみ子の目にも鮮明に映り込んでいる。その空の下に、まもなく始まるすみ子美容室の存在がはっきりと見えていた。
すみ子はポケットに忍ばせておいたドラ焼をおもむろに取り出し、三等分して家族そろってほおばった。こんなふうに笑って未来へ突き進む女性。それが私の母、すみ子である。