「ちょっと、考えてみます」と。
僕は棚の上に目を向けた。そこには、亡き夫と写る若かりし頃のユエさんの写真が立てられている。ショートボブの髪を内側に巻き、満面の笑みを浮かべるその姿は今とは別人のようだった。
鏡の横には花瓶に挿した一輪の赤い薔薇の花。お香が焚かれた店内には、気持ちが安らぐ香りと、耳に優しいジャズの音色が漂う。
「雰囲気も大切やからね」と、アスカ。居心地が良い空間だった。
「まじまじと鏡見るなんて久し振りすぎて・・・・・・」
少し困惑した表情のユエさんに「じゃ、しばらく外で待ってますね」と声をかけ、僕は店を出た。
アスカは店長にお願いして、定休日に店を借りてくれた。本当に感謝しかない。
白い壁に貼られたレンガとアンティークな木製のドアという美容室の外観は、まるでヨーロッパの民家のような洒落た佇まいだが、その脇にある満開の桜の木が何とも言えない風情を醸し出している。
僕はファインダーを覗き、イメージを膨らませた。
「よし、ばっちり!」
見上げた空は、雲一つない青空だった。
「あらぁ、いやぁぁぁ」
鏡に顔を近付け、ユエさんが感嘆の声をあげた。短くカットして内側に巻いたヘアスタイルと、薄っすらと施されたメイクは部屋に飾られた写真の中のユエさんのようだった。
「綺麗ですよ、ほんとに」
お世辞なんかじゃなく、心からの言葉だった。
「ほんまに、なんて言っていいんでしょ・・・・・・」
ユエさんは何度も角度を変えながら鏡を見ている。
「ユエさん、実はサプライズが・・・・・・」
「サプライズ?」
アスカが持ってきたウェディングドレスを見て、ユエさんはすぐに悟ったようだった。しかし、ユエさんは拒んだ。予想通りだった。それでもアスカが「私がお手伝いしますよ」と、優しく声をかけると、ためらいながらも静かに頷いた。
「写真撮るなんて何年ぶりやろ」
純白のウェディングドレスをまとったユエさんの表情は柔らかかった。まるで、三十五年におよぶ緊張感から解き放たれたように。これまで、僕がどんな言葉をかけようと見せることのなかった表情が、アスカの技術で蘇った。美容師の技術は誰かの人生を変える力を持っていると感心した。
ユエさんの首に巻いた花がらのスカーフは、初夏に爽やかだった。
「さぁ、どうぞ」
ユエさんの声は弾んでいた。
「体調はどうですか?」
「ええ、おかげさまで順調ですよ」
表情も明るくなった。
「今度、髪が伸びたらパーマあててみよかなって思うんやけど、どうですかね?」
「もちろん、良いと思いますよ!」
写真が並ぶ棚の上が少し賑やかになった。
タキシードを着た旦那さんの写真の隣には、ウェディングドレス姿のユエさんの写真。どちらも満開の桜を背景にしたそれは、時を越え仲睦まじく肩を寄せ合うように見えるのだった。