「悲しくなるから、一人で来たくなかったのになあ……」
小さくため息を吐き出し、成美は鞄を探り鍵を取り出した。玄関の鍵を開け、からからと音を立てながら引き戸を開ける。
暗い廊下の向こうから「成美ちゃん、いらっしゃい」という祖母の明るい声を聞くことはもうできない。
「成美、ごめん。おばあちゃんの家の片付け、一人で行ってくれる? お母さん、急なシフト変更でね、午後も仕事抜けられなくって」
「えぇ、一人だと片付け進まないよねって言ったのお母さんでしょ?」成美は電話の先の母に向かって唇を尖らせた。
「成美はおばあちゃんの家に入り浸ってたし、どこに何があるか分かってるでしょ? ヘソクリでも見つけてごらんなさいよ」そう言った母の口調は明るかったが、後から小さく鼻を啜る音が聞こえた。
三週間前、祖母の信代が亡くなった。持病があったわけでもなく、突然の出来事だった。不意に訪れた大きな悲しみに、一人娘だった成美の母親と、もちろん成美もすぐには受け入れられなかった。それでも、日々の暮らしは粛々と続いていく。役所などへ手続きや残された家財道具の処分などを行う必要がある。
一人で暮らしていた祖母の荷物を整理すべく、成美は母と予定を合わせて祖母の家へ訪れるように決めた。
成美は「おばあちゃん、お邪魔します」と小さく声に出したのち、そおっと部屋に上がった。誰もいないことはわかっている。けれど、そこかしこに祖母の気配が残っている。家主が不在になった家は、ただそれだけで悲しい。
前に来た時は傷む物もあるだろうと台所周りを片付けた。今日は文机や本棚など信代が普段利用していた場所の片付けをしようと決めていた。
いつも信代が座っていた座椅子に、成美はどさっと寄りかかる。顔に被さった髪がうっとおしい。片付けに取り掛かる気にもなれず、ぐるりと部屋を見回してみる。壁には祖母と、ずいぶん前に亡くなった祖父が社交ダンスの衣装を身にまとった写真が何枚も飾られている。首からメダルを下げ、メイクと髪型までバッチリと決まっている。祖母からは「この大会前からね、髪に紫のメッシュを入れ始めたんだよねえ」と、それぞれの写真にまつわるエピソードを何度も話してくれた。
すらりと姿勢の良い祖父とひまわりのような笑顔の祖母の写真を見ていると、いまにも「成美ちゃん、美味しい大福買ってあるよ!」と祖母が現れるんじゃないかと思う。成美は不意に胸が締め付けられ、目頭がかあっと熱くなった。
少しして気持ちを切り替えようと、成美は文机に目を向けた。机の上には、公共料金使用のお知らせや、友人からの手紙などがきちんと箱に収められ整理されていた。几帳面な信代らしいなと思っていたところ、卓上カレンダーに目が止まる。ところどころ日付がぐるりと丸く囲まれ、小さな文字で予定が書き込まれていた。成美はカレンダーを手にとり、何気なくめくってみる。すると気になることがあった。どうやら信代は今日、7月2日に予定を入れていたようだった。紫色のペンで丸く囲まれ「美容室ステージ15時〜」と記されていた。
「おばあちゃん、今日美容室に行くつもりだったんだ……」
成美からみても少し派手な紫のメッシュを入れた髪は、信代のトレードマークだった。社交ダンスをしていたころから、ずっとその髪色を変えずにいた。
祖父が亡くなってから、信代は社交ダンスをやめてしまった。「おばあちゃんのパートナーは、光一おじいちゃんだけだから」と祖母はいつも目を細めて話していた。しかし、紫色の髪のメッシュだけはやめることがなかった。きっとこの美容室で、染めてもらっていたのだろう。美容室の予約をした時、自分の命がどうなるかなんて、祖母自身予想もしていなかったに違いない。