激しい雨を浴びながら沙織は走る、走る、走る。目を細め、わずかな視界を確保する。かばんを頭に上げて傘にする。白いシャツに水分が張りつき、素肌に雨の感触が染みこんでいく。
東口中央通りへ入った。
飲み屋が林立している。大人のお店が並ぶ、並ぶ。最初の十字路を右に曲がり、次は左に曲がる。その細道にも飲み屋やスナックが続く。
沙織が走りぬけようとした時、立ち飲み屋から老人が出てきた。沙織の姿に目を大きくすると、
「おじょうさん、これ使いな」
真っ黒な傘を手渡してきた。
「えっ、いいんですか?」
「大丈夫だよ。私には予備があるから」
老人は微笑んだ。目尻の大きな泣きボクロが印象的だ。
品のいい爺さんだった。ハットをかぶり、仕立ての良いスーツを着ている。気品あふれる紳士のようだった。
「ありがとうございます!」
沙織は深く頭を下げてお礼を言った。傘を広げ、再び走り出した。高級感漂う、重みのある傘だった。柄の部分に『揖斐』と刻印されていた。だが、沙織は何と読むのかまるで分からなかった。
【2】
「ただいまー」
沙織が自宅に着いたのは、夕方六時半を過ぎた頃だった。
全身が雨で濡れている。ぴっちりと張りついた夏服とスカート。それでも、途中でもらった傘がなかったら、もっとひどく濡れていただろうと思った。
「ばあちゃーん、タオル持ってきてー」沙織は玄関から居間に向かって声を放った。
とんとんとん……祖母の足音が近づいてきた。
「おかえり沙織……どうしたの?濡れちゃってるじゃないの」
祖母の幸子(さちこ)は、上から下、下から上へと目線を走らせる。
「さっき駅でね、傘を持ってない小学生がいたから、あげちゃった」
幸子から受け取ったタオルで、沙織は髪の毛をこする。
「でもね、中央通りの飲み屋から出てきたおじいさんに傘もらったの。いいことすると、いいことあるのかもね」沙織の口調はスキップするように明るい。
「そう、それは良かったね。感謝しないとだね。それより、夕飯できてるから、着替えたら食べなさいね」
はーい、と返事をして、沙織は自分の部屋に向かった。忙しい両親に代わって、沙織の面倒を見てくれるのは祖母の幸子だ。
着替えをすませると、リビングで夕食をとることにした。テーブルの上の夕食のメニューに沙織は目を輝かせた。