「女房が明子さんをつれてきた」
須田の女房と明子、その足元に順一とマリがいた。
マリが目を丸くして、栗山にむかって歩いてきた。
よちよちというより、体を左右にゆらして、アヒルが歩くようだった。
顔は真剣だったが、栗山にはわらっているように思えた。
手をのばして、マリがわらいながら、体を左右にゆらして、歩いてくる。
栗山も両手をのばした。その瞬間、稲妻のように記憶がよみがえった。
押し殺し、いなし、むきあうのを拒んできた、その記憶が、マリのすがたと重なっている。
娘だった。わらっているように見えたのは、娘がわらっていたのだ。
まだ十代だった娘を白血病で失った一年後、妻がこの世を去った。
その娘が幼かった頃のことを思いだすのが地獄だった。
マリがようやくたどりついて、栗山の胸にすがりついた。
娘を抱くようにそっとマリを抱くと、幼いころの娘と同じ匂いがした。
目にこびりついている娘と妻の笑顔が頭をかすめて、やがて消えた。
あの空白があらわれた。かなしみも苦悩もないところで、死ぬと決めて山にはいって、いまはやめたたばこに火をつけたときにみえた空白だった。
なぜ死ななかったのだろう。
明子を見た。じっと栗山を見ている。生きたいという目だった。
「ここに住めばよい。わたしは多摩川が見える一室だけをもらう。あとは全部あなたたちでお使いなさい」
固く握った明子の両手が小さくふるえた。
「わたしは子どもたちといっしょにいたいだけです」
「家賃はいらないのですから、夜、働かなくてもよいでしょう」
立ち上がって、押入れの襖を開けた。
「親子三人の布団を買っておきました」
須田と植村がうなずきあった。
「やつはこっちの作戦を知っていたようだぜ」
テーブルについて、出前の寿司とコンビニのケーキ食べ、男たちは飲み物をもって、多摩川の見える部屋へ移った。
順一とマリはスヌーピーの絵柄の子ども布団にもぐって眠り、須田の女房と明子は、キチンやバスルームを見てまわっているようで、ドアを開閉する音が聞こえた。
「余命一年というわりに元気じゃないか」
「ふしぎなんだ」
「ガンが消えたのかい」
「検診で、ガン細胞が半分に縮小していることがわかった」
「めでたい」
須田と植村がグラスをもちあげた。
栗山は、西の空に目をむけているが、なにも見ていなかった。
頭のなかに空白があって、そのなかで、ただじっとしている。
栗山は知っている、この世は地獄で、生きることが死ぬことよりも辛いことを。だから、臆病なようだが、いつか見たあの空白のなかにじっと身をひそめている。
なにも考えなければなにもおきない。
死ぬことなどなにもこわくなかった。
栗山にむかって、よたよたと歩いてきたマリが思いうかんだ。
もうすこし生きていようか。
「はじまったぜ、夕焼けが」
三人が十階の窓際に並んで、夕陽に顔を赤く染めた。
夕陽に照らされた飾り棚の妻と娘の写真がわらっていた。