たんぽぽが咲いたからもう春だ。雲雀がちゅんちゅら鳴いている。電車はつらつら走っていく。線路の沿道にはどこまでも桜がつづいている。なんだか甘ったるいような気分だ。
ぼくはあくびをしながら職場へむかう。ぼくの職場は百貨店だ。神戸にある関西一の百貨店《アレグレット・ポコ・モッソ》。ぼくはそこで輸入商品の実演販売をしている。ウインナーを焼いてお客さんに食べさせたりコーヒーを淹れてお客さんに飲ませたりする仕事だ。運が良ければウインナーが売れたりコーヒーが売れたりする。時にはホットプレートやエスプレッソマシーンが売れることもある。仕事は楽しい。シンプルだし高時給だ。一日働けば一万五千円もらえる。せっかく大学を出たのに派遣社員なんかするなと母さんはいう。父さんも同じようなことをいう。
「なんのためにお前を大学に入れてやったんだ」が父さんの口ぐせだ。
電話で話すたびに彼らは小言をいう。実家でぼくの味方なのは妹のシズカだけだ。シズカだけがいつもぼくを肯定してくれる。「お兄ちゃんはこれでいいのよ」「お兄ちゃんは大器晩成なのよ」「わたしはお兄ちゃんを信じているわ」「お兄ちゃんは最高よ」彼女はいつだってそんなかんじ。
シズカは今年高校三年生になった。東京の国立大学に進学するつもりらしい。このあいだ尼崎の喫茶店でいっしょにランチを食べたとき「最近は勉強三昧の日々を送っているわ。もうクタクタよ。おほほほほ」とパンをかじりながらいっていた。
そう。シズカはおほほほほって笑うんだ。クスクスでもケラケラでもなくおほほほほ。上品な妹をもってぼくは嬉しい。
仕事は週四で入っている。月曜日から木曜日の四日間。勤務開始が朝の十時で終わるのは夕方。十七時とか十八時とかだいたいそのくらい。いつも仕事終わりにぼくは百貨店横の《鋼のトマト》という名前のレストランでココちゃんと落ち合う。ココちゃんといっしょにディナーを食べる。ぼくは毎回キノコとトマトのオムライスだ。ほかのものはたのまない。自分の好物はよくわかってるんだ。ココちゃんはトマトドリアとかトマトスパゲッティとかシーフードトマトピザとかその日の気分にあわせていろんなものを食べる。時にはトマトオイルサーディンチャーハンやトマト牛丼なんかも食べる。ココちゃんは味の冒険者だ。いつだって自分のまだ食べたことのないものを食べたがる。その点ひとつをとっても彼女が好奇心旺盛ではつらつとした素敵な女の子だってことがよくわかるだろう?
ココちゃんはぼくのガールフレンドだ。付き合ってそろそろ一年になる。ケンカはまだしたことがない。だけど昨日はすこし危なかった。ほんのすこし険悪な夕食だった。ぼくの喫煙を彼女がとがめたのだ。そんなことは初めてだった。ぼくは灰皿で煙草をもみ消していった。
「ずっと嫌だったのに黙っていたの?」
「そうなの」
「へえ。残念だな。ぼくら何でも話し合っていこうねって約束したじゃないか。一年近くもココちゃんに嫌な思いをさせてたなんてショックだよ」